特長その7

諸聖者を認める、アドヴァイタ哲学のスタンス

◆本覚思想と仏教の空

 参考までに、 『岩波 仏教辞典』 にある 【 本覚思想 (ほんがくしそう) 】 の項目にある解説を次に、全文引用・掲載してみます。
 −−−−日本天台を中心として発展していった思想で、『大乗起信論』に初出する≪本覚≫≪本来の覚性≫という術語ないし観念を軸として展開していったもの。かつては時代区分の上から、中古天台思想とも称した。中国において、賢首(げんじゅ)法蔵(643〜712)が華厳経とともに『大乗起信論』を用いて華厳哲学を確立したとき、本覚思想は出発したが、日本にきて、空海(774〜835)が『起信論』の応用解釈である『釈摩訶衍論(しゃくまかえんろん)』を活用しつつ、密教の体系化に努めたとき、本覚思想は再出発する。特に『釈摩訶衍論』では、究極の理として本覚以上に≪不二摩訶衍法≫ということが強調されており、それを空海は密教にあてはめ、最高位に密教をすえた。 本覚思想も不二にポイントを置いたものとなる。空海没後、密教に盛られた不二・本覚思想は叡山天台に移入し、いっそうの発展をとげ、鎌倉中期(13世紀半ば)近くになってクライマックスに達する。いま、定義付けを試みると、 1)二元相対の現実をこえた不二・絶対の世界の究明、 2)そこから現実にもどり、二元相対の諸相を不二・本覚の現れとして肯定、ということになる。現実の世界には種々の事物や事象が生起しているが、それらは自他・男女・老若・物心(色心)・生死・迷悟(仏凡)・善悪・苦楽・美醜などのように、AB二の枠で整理される。そのAB二は、それぞれ独立・固定の実体(我・自性)をもって存在しているのではなく、無我・空のもとで、根底は不二・一体をなしている。つまり、AB不二真実相であり、永遠相ということである。 維摩経入不二法門品では、≪空≫のいいかえとして不二が強調されている。本覚思想は、まずAB不二の永遠相をつきつめていった。これが本覚思想の第一段階であり、第一定義である。ついで、そこから現実にもどり、AB二の諸相をAB不二・本覚の現れとして肯定するにいたる。これが本覚思想の第二段階であり、第二定義である。空海の不二は、この第二段階にあたるものである。男女を例にとれば、男女の二は、本来、根底においては男女不二で、これが第一段階における不二である。ついで現実の男女二にもどり、男女二を男女不二の現れとして肯定してくる。いわば、男女不二と男女二との不二で、これが第二段階の不二である。具体的にいえば、現実の男女二の当相つまり男女の愛欲・合体の当処に、男女不二の境地を見るということで、現実に密着した。その意味で現実肯定的な不二・本覚の思想である。ただし,空海には現実にたいする否定性が残っていたが、叡山天台における本覚思想は、中世にいたって徹底的な現実肯定につき進んだ。まず生死二関して、真の永遠・絶対の生命は生と死の対立を超越した不生不滅(無生無滅)ないし生死不二のところにあり、そこから現実の生死二を振り返って見れば、生も死も、ともに生死不二の現れとして肯定されてくる。ついで同様の論法を仏凡・迷悟の二にあてはめ、仏のみならず、迷いの凡夫もまた仏凡不二の現れとして肯定するにいたる。凡夫こそは現実に生きた仏の姿であるとして、凡夫本仏論さえ打ち出され、ひいては日常の行為・生活のほかに、とりたてて修行の必要はなし、と説かれた。
 本覚思想は仏教哲理の究極的なものとして価値高いといえるが、迷いの凡夫までも肯定するにいたった点は、仏教の一線を逸脱するものであた、そこには現実肯定の日本思想が関係していると思われる。すなわち、鎌倉中期近くになって、叡山天台の伝統的な法華経・本門思想と結合しつつ、現実肯定の日本思想を取り込んで、徹底した現実肯定に突き進んだということである。鎌倉中期からいこう、これが日本思想側に逆輸入され、神道を始め、和歌・能楽・生け花・茶の湯などの文芸の理論かに供せられた。なお、内奥の真理ということから、秘授口伝とか、切紙相承(きりがみそうじょう)という伝達方法がとられたが、これも日本文芸に採用された。−−−−−−−

 上記の解説にある通り、本覚思想は、徐々に≪行き過ぎ≫が生じて、本物の≪不二一元哲学≫から逸(そ)れて行きましたが、般若宗では、現代に、本物の本覚思想を復活させる役割を担います。
 般若宗の基本解説書である≪般若心経・完全マスター・バイブル≫を学習すれば、本物の本覚思想が身につきます。
−−ちなみに、ウェブ百科『ウィキペディア』における「本覚」の解説はこちら。

▼ 本覚思想と仏教の空〜〜諸聖者を認めるアドワイタ哲学のスタンス

 この世の中は多様です。そして広大な宇宙も多様です。しかし、「すべてに原因が有る」のならば、この多様性が流出して来た根源にさかのぼって行くと、やがて「すべての第一原因」としての「単一性」に突き当たるはずです。
 そして、事実、インドで、超人的な瞑想修行をしたヨーギ(=ヨガ行者)は、宇宙の究極の第一原因を明確に直感し、体験しました。

≪多様の中の単一≫
≪根源の単一性から流出している多様性≫


 このように、宇宙と世界の成り立ち
すべてを ≪一元的に理解する神秘主義的哲学≫ 
 それが、インドのアドヴァイタ(=不二一元)哲学
です。
 
アドヴァイタ哲学は、ヴェーダーンタ哲学とも呼ばれます。ヴェーダーンタ哲学とは、ヴェーダ聖典の終末部(アンタ)に記されている哲学という意味で、ウパニシャッド思想とも呼ばれインド哲学史の主流をなす思想体系です。

 これらを思い切り、分かりやすく表現するならば、
≪唯一の、超越的な「絶対界」から、有形的で物質的な「相対界」が流出している≫
 ということです。こう考えれば、そんなに難しい哲学ではない、と分かるでしょう。


▼ 仏教の「空」は、根源の第一原因を否定するものではない

 仏教の「空」について、机上で空論をこねくり回している学者や僧侶は、「仏教は無神論である」と主張し、根源の第一原因の存在も否定します。しかし、本物の「空の思想」は、根源の第一原因を否定するものではありません。
 岩波仏教辞典の「不二」の項では、≪「不二」は「空」を関係の上に言い直したもの≫との解説が有りますし、また、≪維摩経(…)において、「不二・空」が事物の真相であり、それをつかむことが「悟り」ということになる≫ との解説も有ります。

  ≪根源の第一原因を否定する者が、高い瞑想に入ることは不可能≫ 

 仏教徒の中には、無神論のまま「空」を論じ、無我を論じ、瞑想する人がいます。しかし、こういう人は、決して高い瞑想に入ることはできません。もし、そういう人が「高い瞑想ができる」と主張するならば、自覚なく
自己欺瞞を犯しているか、故意に嘘をついているか、どちらかでしょう。
 インドのヴェーダーンタ思想に立脚した「ヒンドゥー教の中の聖者」が到達した「瞑想の至高の境地」に、無神論仏教徒が到達できるなどということは決して有り得ないことです。

 また、
「仏教の瞑想の境地と、ヒンドゥー教の瞑想の境地は全然別個のものだ」 
このように主張する仏教徒がいたならば、「この人は本当に瞑想修行をしているのだろうか」と 疑いの目で見るべきでしょう。

 また、この議論をする時に、必ず問題になるのが、
「釈尊とヒンドゥー教の相互関係」です。
これについての「正解」は、「般若心経完全マスター・バイブル」の前篇第三章第★★★◎◎◎を参照して下さい。


▼ 本地垂迹説の「本地」は、根源の第一原因の別名

 本地垂迹説については、渡部昇一上智大学名誉教授が、本地垂迹説のような仏教と神道の統一理論を創案して宗教対立を解決し、二つの宗教の和合を成し遂げた日本人は素晴らしい、という内容のコトメントをしています。
 尤も、神道側からすると、仏教の下に神道が位置付けられた形なので、昔から不満たらたらでした。しかし、ともかく、
本地垂迹説は宗教理論としては非常に優れたもので、世界に誇れる理論であることは間違いありません。
 
本地垂迹説の「本地」は、密教で言う「大日如来」のことで、「万物根源の第一原因」である「超越神」を意味します。
 
「垂迹」は、その本地から「具象的に流出して来たもの」の意味です。神道の神々も本地からの「垂迹体」に過ぎない、というのが、本地垂迹説です。
 こうした
「本地垂迹説」は、密教の一大曼陀羅観に基づく霊的ヴィジョンだと言えます。

 本地垂迹説は、仏教と神道という二宗教間の統一理論でしかありません。そのように理解されています。
 しかし、密教の一大曼陀羅観は、「根源の第一原因」から万物が流出し、末端に行くほど多様化して行く、という霊的ヴィジョンを表す図です。ということは、≪仏教(密教)は神道をも包摂した教えである≫ という宗教哲学は、密教の一大曼陀羅観に基づく一つの当然の帰結でもあるわけです。
 であるならば、本来、密教の一大曼陀羅観に基づいて誕生した本地垂迹説ですが、
この「垂迹」については、何も「神道」に限る必要は全然ない、ということが分かります。
 つまり、本地垂迹説の
「垂迹」を、神道限定の殻を打ち破り、≪無限定の万物 = 相対界のすべて≫ にまで拡大・一般化した形で理解する時、日本で誕生した二宗教間限定の宗教統一理論は、グローバル・スタンダードでユニヴァーサルな、無限定の宗教統一理論に「化ける」ことができるわけです。

 こうして
拡大化された本地垂迹説を、今仮に ≪一般本地垂迹理論≫ と呼びましょう。
 この ≪一般本地垂迹理論≫ こそ、
本物の、過不足のない、密教の一大曼陀羅観を表している、と言えます。
 そして、この  ≪一般本地垂迹理論≫ こそ、
インドの不二一元哲学そのものでもあるのです。


                  根源の第一原因である、
≪絶対界の超越神≫ が、「本地」
                    そこから流出する
≪相対界の万物≫は、「垂迹物」
                        これが  ≪一般本地垂迹理論≫ であり、
                           
密教の一大曼陀羅観であり、
                           
インドの不二一元哲学です。


▼ 仏教徒の偏見

 大乗仏教では ≪諸仏≫ という言葉が登場します。般若心経の中には、≪三世諸仏≫ という言葉が有ります。三世とは、過去・現在・未来の諸仏の意味です。
 ところが、現実には、「生きた仏としての聖者」について、仏教徒はあまり関心がないのか、
「今生きている聖者」には関心がありません。
誰かが聖者か否か、その識別力すら無いのが現状ではないでしょうか。

 本当に高い瞑想の修行をしている人ならば、自分と同時代に「聖者」が生きているという事実があった場合には、その
聖者の存在ぐらいは、当然、直観的に、又は、修行で高められた霊的識別力によって明確に分からなくては
話になりません。そうでなければ、その人の瞑想力は、「悟った聖者のまなざし」すら見ても分からない 《体たらく》 ということになりましょう。

 また、本当に「悟り」を目指して厳しい修行をしている僧侶(や学者)ならば、生きている大聖者が存在したと聞くならば、万障を繰り合わせて、その大聖者に会いに行き、長年の疑問を尋ねるだけの「求道心」があって当然でしょう。
 そうしない場合、その修行者の求道心には、不純なものが多々含まれている、と疑われても仕方がない所でしょう。


▼ 高い瞑想力は正しい識別力を伴う

 ある程度、瞑想修行が進み、一定の高い瞑想が出来るようになると、繊細で鋭敏な霊覚が発達して来ます。そうすると、自分と同種の「瞑想状態」、或いは、それ以上の高くて純粋な瞑想状態にある他の人も、パッと分かるようになります。

 この種の 
≪純粋性の直観≫ の能力は、普通の人にも、弱々しいながら、存在します。
 例えば、十五、六歳の美少女が無垢で純粋な状態で、芸能スカウトの目に止まり、芸能界入りして、アイドルから女優へと成長しながら、五年、十年と経つ場合、芸能界のドロドロに影響され、私生活もドロドロになり、最初の頃の純粋性の輝きが失われて、《けがれた蛾》 のようになってしまうことが有ります。このような変貌、純粋性がけがれて行く変化については、多くの人が如実に感じることができるでしょう。
 また、オウム真理教が大量無差別殺人事件を引き起こして、麻原教祖が逮捕され、連日、日本全国にテレビで麻原の姿が映像で流された時、 
「なんて、きたならしい男、けがらわしい男」
「イモ虫みたい」 
「吐き気がするから、もう見たくない」
こうした意見は、各地で聞かれました。
 これは、麻原の
不純性を、はっきりと感じ取る人々が沢山いたことを意味しています。(勿論、そのように感じなかった人もいるでしょう。今でも、オウム真理教あらためアレフ教団に所属する信徒は、麻原の写真を崇めているということですが、麻原の写真を凝視してもその写真と風貌から 「何の不純性も感じないどころか、そこに真のグルの純粋性すら見い出している」 というのは、実に常軌を逸した感性だと言えます。(つまり、「純粋な人々が騙されている」というわけではない、ということです。)

 
純粋性を感じ取る能力は、正しい瞑想法を実践することで、グングンと増進させることができます。そして、その力を鋭敏にして行くことができます。
 
 一方、
「純粋性など、どうでもよい」というをスタンスを取る人もいます。
 こういう人は、純粋性に無神経なので、それがケガレていても、ケガレに鈍感ですから、本物の聖者とニセモノの聖者を正しく識別し、区別しようは、全然しないことでしょう。
 こうした「純粋性などどうでも良い」というスタンスで、「高い瞑想」について語ったり、高い瞑想に入ろうとするのは、
茶番でしかありません。何故なら、「高い瞑想」と「純粋性」は不可分一体のものだからです。


▼ 「聖者」とは

 次の方々を、聖者、又は、大聖者と認定しております。

≪近代の聖者≫
・シュリ・ラーマクリシュナ
・ラマナ・マハリシ
・晩年のシュリ・オーロビンド


≪現代生存している大聖者≫

・シュリ・チンモイ(についての詳細はクリック)

・シュリ・サティア・サイババ(についての詳細はクリック)

≪過去の大聖者≫
・クリシュナ
・ゴータマ・シッダールタ(釈尊)
・イエズス・キリスト


≪過去の聖者≫
・アディ・シャンカラ

※ 注1≫≫

 チベットの聖者や、他の地域の聖者については、おいおい、厳しい審査の上、追加して行くことも有り得ます。
 インドの他の聖者と言われる方々についても、順次、できる限りの資料を収集した上で、厳しい審査の上、本物の聖者であれば、ここに追加して行くことも有り得ます。
 
※ 注2≫≫
 但し、ラジニーシ和尚や、TM瞑想のマハリシや、釈尊の輪廻転生身であると自称する大川隆法氏については、既に審査の上、除外されています。≪サハジャ・ニルヴィカルパ・サマディーに入定した大聖者≫ が、大川隆法氏のように、三男二女も設けるような「下半身のヴァイタルな活動」をすることはないからです。(この点から言うと、大川氏を釈尊の輪廻転生だと信じる信者たちは、『ラーマクリシュナの福音』を一度も読んだことがない人々ではないか−−−−つまり、聖者に関しての正しい知識が不足した『情報不足の状態』なのではないか、という推測が成り立ちます。)
 ただし、「聖者でないから、即、悪い人」 という図式は必ずしも当たりません。キリスト教の神父や牧師さんは、聖者ではありませんが(大方は)良い人たちです。それと同様の理屈が成り立ちます。大言壮語はいけませんが。


▼ 「聖者」と「大聖者」を分ける基準

 ヒンドゥーの教えに沿って、
≪ニルヴィカルパ・サマディーに入定(にゅうじょう)することができた人≫ を (普通の)「聖者」
だと認定しています。
 具体的には、シュリ・ラーマクリシュナが、それに当たります。日本ヴェーダーンタ協会が刊行する『ラーマクリシュナの福音』(全訳版)や、その他ラーマクリシュナ関連書物の中に、ニルヴィカルパ・サマディーに入定当時の様子が詳しく説明されています。

★ ニルヴィカルパ・サマディーに関する詳しい解説については、
『般若版に心経完全マスター・バイブル』 前篇第5章
または、その詳説版である 『真我瞑想法スートラ』 第24章 
を参照して下さい。


 ヒンドゥーの教えに沿って、
≪サハジャ・ニルヴィカルパ・サマディーに入定できた人≫ を 「大聖者」(=聖者の中の聖者)
だと認定しています。
 具体的には、クリシュナや、釈尊や、イエズス・キリストや、シュリ・チンモイや、シュリ・サティア・サイババが、それに当たります。 シュリ・ラーマクリシュナは、存命中に、サハジャ・サマディーに入ることを神に強く願いましたが、許可されなかったことが、『ラーマクリシュナの福音』に記録されています。 

★ サハジャ・サマディーに関する詳しい解説については、
『般若版に心経完全マスター・バイブル』 前篇第5章
または、その詳説版である  『真我瞑想法スートラ』 第25章
を参照して下さい。



★11の特長の一覧に戻る

★★ホームへ

←←前ページに行く          次ページに行く→→ 

このページの最終更新日 2004/5/16

著作権について

   ■ ■ ■ ■  Copyright (c) 2003〜 Aomi Ryu All Rights Reserved ■ ■ ■ ■