真我瞑想法教本第25章

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<25> 「8段階の観想法」(第8段階)

 第二十五章 超宗教の般若ヨ−ガの礼拝観法(第八段階)
       〜〜〜 心源と融合し、真己を顕示する 〜〜〜 
 
 
(真−25−1)
【第八段階】 心源と融合し、真己を顕示する  
 前章で、次の四つのサマディを挙げ、その内、(1)〜(3)について解説した。
 
(1)観仏三昧
(2)サヴィカルパ・サマディ
(3)ニルヴィカルパ・サマディ
(4)サハジャ・ニルヴィカルパ・サマディ
  
 残る一つについて解説して行く。
 
(真−25−2)
(4)サハジャ・ニルヴィカルパ・サマディ(略して、サハジャ・サマディ)
 サハジャとは、梵語で「生来の、生得の」という形容詞である。この名称通り、生まれつき、ニルヴィカルパサマディを内的に保持しながら人間の赤子として誕生して来た者のサマディが、サハジャ・ニルヴィカルパ・サマディである。
 つまり、最低でも前世でニルヴィカルパ・サマディを達成し成仏した魂が、特別の使命を帯びて低次の地上界に生まれて来る、という極めて稀なケ−スである。
 但し、赤子の時から「聖者」として振舞うわけではない。ニルヴィウルパ・サマディの大光明を内的に保持しつつも、それに気付かずに幼少を過ごすケ−スが多い。
 そして、或る日突然、一気に「過去の達成」を思い出し、それが前面に出て来て「大聖者」としての能力を存分に発揮するようになる。
 
(真−25−3)
 サハジャ・サマディの場合、自己の内奥に圧倒的なサマディを(失うことなく)味わいながら、同時に地上活動を行うことができる。これは−−−サマディから出定しないで、即ちサマディに入りっぱなしのまま肉体活動を行う−−−という最高に高度な芸当である。
 この偉大なサマディに達することができるのは、本当に極々少数の者だけである。
 それ故、サハジャ・サマディに到った者は「師の中の師」「聖者の中の聖者」「大聖者」と位置付けられる。〔※註1〕
 
(真−25−4)
〔※註1−−−近代の例で見ると、シュリ・ラ−マクシュナは、より高いサマディを願って、常に「向上一路」の生活を送ったが、それでもサハジャ・サマディに入定する扉は開かれなかった。このことからも、サハジャ・サマディに入ることの困難性が分かるであろう。
 ニルヴィカルパ・サマディのレベルまでしか達成していない聖者の場合は、そのサマディから出定して、相対意識が濃くなり、物質的意識が強くなるほど、意識レベルも下がって来る。とは言え、この場合は、既にニルヴィカルパ・サマディの達成により「悪しき薫習」は全部焼き払われており、この者の機根は慰安的光明志向性に満ちているので、或る程度以下に意識が下がることは断固拒否して、必ず上昇に向かう。//〕〕〕
 
 
(真−25−5)
 サハジャ・サマディは、サマディの熟達者のサマディである。よって、今生で初めて成道した程度の新米(グリ−ン・ビ−ン)の聖者に開かれるサマディではない。つまり、先に触れた通り、少なくとも前世でニルヴィカルパ・サマディを達成した上に、「衆生救済の大誓願」に基づいて、苦難も顧みず、再び「汚濁渦巻く地上界」に生まれて来るという「奇特な者」だけが達成できるサマディである。
 それ故、サハジャ・サマディこそが「ヨ−ガ行者の究極の姿」と言われる。〔※註2〕
 
(真−25−6)
〔※註2−−−仏教には、釈尊が過去世に遡っても仏であったとする「過去七仏」の思想が有る。しかし、初めて成仏を達成してから七回、仏として転生し、布教しているとする「過去七仏」の考え方にはかなり誇張が含まれていると見るべきであり、これを額面通り真に受けることはできない。
 とはいえ、多くの熱心な信者が「ゴ−タマ・ブッダの生涯における説法と感化力の巨大さから見て、ゴ−タマ・シッダ−ルタとして生まれ、三十五歳の時に、この時初めて成道した(=ニルヴィカルパ・サマディに達した)とはとても考えられない」と思うのは、至極尤もな感覚である。                  
 後述する通り、確かに、ゴ−タマ・ブッダはサハジャ・サマディの達成者であった。
 それ故、(過去七回は多過ぎるとしても)最少限、ゴ−タマ・シッダ−ルタとして生まれる一つ前の前世では既に成道していた、と見る見方は正しい。
 実際、資料が明白なシュリ・ラ−マクリシュナの場合と比較・検討して見ても、ゴ−タマ・ブッダの生涯に渡る「精力的な活動性」とそれに伴う巨大な霊力・感化力は、サハジャ・サマディのそれを示している。//〕〕〕
 
 
(真−25−7)
 サハジャ・サマディの達成者は、何をするにしても、強烈で広大なオ−ラを発している。霊的感性の鋭敏な者からすれば、このオ−ラは明白である。(このオ−ラは時に数キロメ−トルにも及ぶ)。しかし、物的で鈍重な意識・粗雑で荒頽的な意識の中に居る人間は、このオ−ラを感じることも見分けることもできない。
 それ故、粗野な人間は、サハジャ・サマディの達成者を“普通の人間”と同じに見てしまう愚を犯す。そして、ついつい軽視し、馬鹿にしてしまう。
 「粗野・粗暴・暴虐」に満ちた者の想念は、悪辣であり、攻撃的であり、礼拝意識など全然無く、我欲に凝り固まっており、感謝と敬意の念も全然無い波動である。それ故、こうした波動を発する者が不用意にサハジャ・サマディの達成者に近づくことは、必然的にその者の毒々しい暗黒想念で、大聖者の鋭敏で微細な霊体を攻撃し、傷つけることになってしまう。
 従って、こうした波動の者が帰依心なく、サハジャ・サマディの大聖者に近づくことは、それだけで−−−冒涜的行為の罪、霊的な不敬罪・霊的な侮辱罪・霊的な暴行罪・霊的な傷害罪−−−を犯すことになってしまう。〔※註3〕
 
(真−25−8)
〔※註3−−−無論、サハジャ・サマディの時に限って、粗暴な者の(霊的な)不敬・冒涜・暴行・傷害の罪の成立するのではない。観仏三昧の時であれ、サヴィカルパ・サマディの時であれ、ニルヴィカルパ・サマディの時であれ、そうした状態に入っている者に対して、サリン毒の如き悪業想念を噴霧するならば、“霊的な”不敬・冒涜・暴行・傷害の罪は同様に成立する。しかし、或る程度の良識があれば、人が黙想したり、瞑想したり、厳粛な礼拝を捧げている光景を見たならば、それを尊重し、その雰囲気を邪魔しないよう、それ相当の心遣いはするものである。よって、先の如き「霊的な罪」は発生しにくい。
 ところが、サハジャ・サマディの大聖者は、普通に歩き、喋り、笑い、冗談を言う。
 こうした人間に対して、「黙想・瞑想・厳粛な礼拝」に専心している人間に対するのと同様(以上)の心遣いをすることは、「無知なる者」のままでは決してできない。
 それ故、サハジャ・サマディの大聖者に対しては、無礼千万な霊的暴行等々の罪悪が犯される可能性は極めて高いものになるのである。
 こうした原理をよく心得て、真の帰依者は、大聖者を前にした場合の「霊的エチケット」について、能々(ヨクヨク)弁えていなければならない。如何なる「悪想念による無礼」もないように細心の注意を払いに払って、払い過ぎるということはない。常に邪霊の軍団は、帰依者の想念の隙に入り込もうとしているからである。//〕〕〕
 
 
(真−25−9)
 サハジャ・サマディの大聖者の「個我」は、「真我」の完全な「器具・道具・機関」になっている。この大聖者の「個我」は、「真我」の完全な手足に過ぎない。何をするにも、完全な三密の状態(身口意が真我と連結している状態)にある。
 よって、こうした大聖者は、「行住坐臥の四威儀」総てにおいて「仏」である。
 こうした霊的現象を、一歩踏み込んで分析すると、サハジャ・サマディでは、大聖者の自我の意識は「大光明普遍純粋意識」の中に半分以上没入・溶解しているため、「賊我」のような「(真我に違背した)個我自家性の動き」は皆無である。そして、「真我」と不可分に連結した「個体意識」〔※註4〕が前面で出ている。それ故、この「大聖者」の個体意識は、真我の意識と別のものではない。
 従って、サハジャ・サマディの大聖者が自分のことを「我はそれなり」「我即大日」「私はブラフマンなり」「私を見た者は神を見た者である」等々と自己紹介するならば、こうした自己言及は「賊我」から出たものではないので、(ニルヴィカルパ・サマディ以上の達成者、特に)サハジャ・サマディの大聖者がこのように言う場合に限って、その発言は「真実」であり「正しいもの」と言える。
 
(真−25−10)
〔※注4−−−本講では、「個我」という用語は、善でも悪でもない中性のものとして使用しており、「賊我」は悪いもの、として使用している。しかし、ニルヴィカルパ・サマジィ以上の聖者の個我について語るには、これだけでは不充分であり、これらに加えて、「良い個我・聖なる個我」の名称も必要になって来る。
 「聖なる個我」とは、ニルヴィカルパ・サマディ以上のサマディを達成した場合の個我を指し(この場合に限る)、(前述の通り)三密状態(身口意が真我と連結している状態)の「個我」である。
 
<「聖なる個我」を指し示す名称>(本講の造語)
  神聖個我、具我、媒体我、不可分我、連動我、連結我、三密我、(完全)随順我。    −−−中でも、本講では「具我」という表現を主に用いることにする。//〕〕
 
 
(真−25−11)
 サハジャ・サマディの大聖者は、四六時中「無我」というわけではない。否、「無我」の意味が「賊我が無いこと」の意味であれば、確かに、サハジャ・サマディの大聖者は「無我」である。しかし、「肉体身」が有る以上、「不生の真我」だけが有るわけではないのは明白である。つまり、サハジャ・サマディの大聖者には「具我」が有るのである。(前の註C参照)
 大聖者の「具我」の場合、個体意識は(半透膜の如く)希薄であり、意識が「無限大の大光明」と「物質的有限性」との間をかくれんぼの如く、行ったり来たりしている。
 サハジャ・サマディには、「海印三昧」という別称も有るが、これは、無辺の大海(=無限大の大光明意識)とその海面に映る印影(=物質的有限性の意識)が共存する状態に着目し、それを譬えて命名したことに因るものである。
 
(真−25−12)
 サハジャ・サマディの大聖者の「具我」は「不生の真我」と完全に連動しているので、「具我」それ自体の自己主張はゼロである。それは丁度、指が精神の道具として有り、指自身、精神の意思通りに活動し、指自身は一切自己主張しないのと同様である。
 この状態を評して、「大聖者のエゴは死滅したように眠った状態にある」と言う。
 しかし、より厳密には−−−「大聖者の賊我は死滅したように眠った状態となっているが、自意識が完全に無いわけではなく、具我としての個体意識は、飽く迄も(半透膜の如く)極めて希薄ながら個体意識として有る時もあれば、真我に没入して個体意識を喪失する時もあり、これは丁度、海に浮かぶ『浮き』のように、出たり消えたりしている」−−−と表現すべきである。
 それ故、先に触れた通り、サハジャ・サマディの大聖者の「具我」が、「我即大日」「私はブラフマンなり」と言ったとしても、それは「具我」自身の自己主張では有り得ない。従って、この自己言及は真実である。
(一方、「賊我」が賊我自身の自己主張として、「我即大日」「私はブラフマンなり」「我即全知全能者なり」などと言うならば、そうした光景は、おぞましいばかりである。こうした言動は、まさしく「石油泥棒」の悪業である。真−20−13以下)
 
(真−25−13)
 但し、サハジャ・サマディの大聖者が「我即大日」と言っても、それが即「不可能なことは皆無」という意味での「全能性」を自在に「この有限世界に顕現させることができる」ということを意味するわけではない。
 サハジャ・サマディの大聖者は、内的にニルヴィカルパ・サマディを保持しており、「サッチダ−ナンダ(実在・純粋意識・歓喜法悦)」である「不生の真我」と一体である。
 そして、確かに「不生の真我」それ自体は「全知全能」である。
 しかし、飽く迄も「不生」(=具体化して生起せず)であるから、その「全能性」を具体的な形で顕現させていない状態である。
 勿論、時に応じて、大聖者は「全能性の一端」を顕(あらわ)すことができる。しかし、常に全能というわけではない。「具我」と「真我」は完全なイコ−ルではないからである。
 
(真−25−14)
 では、サハジャ・サマディの大聖者が、「不生なる真我」と不可分の「具我」を持っているとは、どういうことなのか。
 それは勿論(前述の通り)、大聖者の「具我」は、不生なる真我の「一つのインストゥルメント(器具)」であり、「一つのメディア(媒体)」であることを意味する。
 斯(カク)の如く、大聖者の「個我」を真我の「器具・媒体」として捉えると、今度は「器具・媒体」の「性能」が問題になって来る。
 つまり、一口に「サハジャ・サマディの大聖者」と言っても、各聖者の−−−<性能には違いが有る>−−−ということである。
 
(真−25−15)
 「(全能である)不生の真我」と「(媒体に過ぎない)大聖者の具我」との関係は−−−
<弾き手と楽器の関係>−−−に譬えることができる。
 どんな楽器をも自由自在に弾きこなす天才音楽家が一人いたとする。
 この音楽家の前には、様々な種類の楽器が並んでいる。草笛、木製の縦笛、木製の横笛、オカリナ、フル−ト、ピッコロ、オ−ボエ、クラリネット、ハ−プ、ハ−プシコ−ド、チェンバロ、ピアノ、オルガン、バイオリン、ビオラ、チェロ、クラシックギタ−、エレキギタ−、シンセサイザ−、サックス、トランペット、トロンボ−ン、エレクトリックベ−ス、ウッドベ−ス等々。
 天才音楽家は、これらの楽器を一つ一つ手に取り、自由に演奏する。すると、演奏者は一人であるにも拘らず、楽器によって生み出される音楽とその音色は、それぞれ違って来る。何故なら、天才音楽家は、その楽器の特性に適合した音楽、つまり、その楽器ならではの波長・メロディ・リズムを活かした音楽を即興的に作曲し、演奏して行くからである。
 こうして生み出された多種多様な音楽には、そのどれにも独自の味わいと特徴が有る。
 しかし、それらは全部、たった一人の天才音楽家の演奏であり、たった一人の天才音楽家の自己表現なのである。(しかし、無知なる者は、それぞれの楽器で演奏される別々の音楽を聴いて、無数の違った人間がバラバラに演奏しているように誤解してしまう。)
 
(真−25−16)
 これと同様に、サハジャ・サマディの大聖者が地上に複数存在した場合、それらの大聖者たちの言行には、力点に差異が有り、説く道や衆生の救済の仕方の面で多少の差異が有り、特徴と色合いに差異が生じて来る。
 複数の大聖者を動かしている真の主体は、同じ「不生の真我」である。にも拘らず、大聖者の言行に差異が生じるのは、大聖者たちの「具我」の「性能」が同一ではないからである。
 それらの「具我」は、楽器と同様、様々な特性・特徴を持っている。媒体の「特性と性能」が違えば、そこを通しての「同一真我」の自己表現も自ずと違って来る。
(尚、大聖者の具我の「媒体性能・媒体特性」の差異は、その者が過去どのような転生をして、その間何をして来たか、という「過去のカルマ」に応じて決まる。ここに因果律の法則が作用している。)
 こうした現象を平たく言えば−−−<各大聖者毎に「得意分野」に差が有る>−−−ということである。
 こうした原理が働いているために、サハジャ・サマディの大聖者が、「我即大日」「私はブラフマンなり」と言ったとしても、それはその大聖者が即「全知全能」そのものであることを意味しない。確かに、内的には「全知全能」(と不可分)であるが、表面の有限なる表現世界では、あくまでも「具我」の「媒体性能・媒体特性」による限定を受ける。
 これは丁度、天才音楽家が音楽的に全能であっても、楽器を手に持てば、その楽器で演奏する音楽が自由自在の全能性を示すわけではなく、飽く迄もも特定の楽器という限定を受けた上での「有限な音楽」「有限な演奏」に止まるのと同様である。
(どんな楽器の名手でも、草笛一つ渡されただけでは、殆ど何もできない。また、フル−ト一本では、オ−ケストラの交響曲を奏でることはできない。このように、道具・媒体によって、それに応じた限界がある。)
(尚、当然の話であるが、草笛やフル−トが単純なメロディ−しか奏でないからと言って、演奏者である天才音楽家を馬鹿にするのは大間違いである。)
 
(真−25−17)
 同じサハジャ・サマディの大聖者であっても、「性格」や「役目」や「教え方」や「力点」に差異が有る。もしも、大聖者の物質的な「個体」に気を奪われるならば、大聖者たちを主導する「我」はそれぞれ「全く別個」と思ってしまうであろう。
 しかし、それは錯覚・錯誤である。何故なら、大聖者たちを主導している「我」は、どれも「同一の真我」だからである。
 彼らの「具我」は、「不生の真我=純粋大光明意識」に完全に随順している。
 このことは−−−<幼稚園児と手人形を操る青年>−−−に譬えることができる。
 一人の青年が幼稚園に行き、自分の創作した腕人形の芝居を園児たちに見せることにした。舞台を設置して、青年は右手にお姫様の人形を被せ、左手に王子様の人形を被せた。
 青年は舞台の下に潜り、姿を隠しながら、先ず右手のお姫様人形だけを舞台の上に登場させ、女性の声色を出して演技をした。その後で、左手の王子様人形を登場させ、二人の人形の掛け合いで芝居を進行させた。
 園児たちはそれを見て、舞台裏には男性と女性の二人が潜っているに違いない、とすっかり勘違いしてしまった。そのため、人形芝居が終わり、両腕にお姫様人形と王子様人形を付けた一人の青年が出てきた時には、園児たちは全員びっくり仰天した。
 
(真−25−18)
 この譬えに含まれる霊的意義を真に理解する者は、サハジャ・サマディの大聖者が地上に何人出現しようとも、全然戸惑うことはない。しかし、大聖者の肉体身である「形態」(偶像)に気を奪われるならば、大聖者の本質を真に理解することはできなくなる。(こういう者は、人形の数だけ裏に行為者がいると錯覚した園児たちと同類である。) 
 また、「万人共有・同一真我」の原理(真−17−24)を或る程度理解したとしても、大聖者の「具我の媒体性能の差異」を見落とすならば、複数の大聖者間の差異に困惑してしまい、大聖者たちを統一的に理解することができなくなる。(こういう者は、たった一人の青年には、男女の声色を使い、両手を使って、二つの人形を操ることなどできはしない、と思い込んでしまった園児たちと同類である。)
(もしも、この一人の青年が人間でなく「千手観音」であったなら、千体の腕人形芝居が可能となる。このように想像の翼を広げて、この譬えを理解すべきである。空−五−十八以下)
 
(真−25−19)
 サハジャ・サマディの大聖者と雖(いえど)も、性格や役目や教え方や力点に差異が有る。
 しかし、彼らには共通点もある。それは即ち−−−−絶え間ない自己超越の動き、無限に自己を乗り越えて行く向上一路の力強い流れ、そしてその巨大な流れに乗った圧倒的な活動性、片時も停止しない宇宙の無尽蔵のエネルギ−の噴出とうねり−−−そうしたものである。
 「不生の真我、不生の仏心、梵、大日如来、無形なるブラフマン」等々と呼ばれる「真実在・常恒なる大主体」を、「完成と完全の極みに有るところの、<完全停止>した存在」と見るのは正しくない(真−2−2「註1」)。
 宇宙の総ては活動し、止(トド)まる処を知らない。こうした現実を前にして、「全能者」を完全停止の死体の如くに想像するのは、非現実的である。また、もしもそのように想像するならば、その者はたちまち邪見に落ち、霊性修行も瞑想も「怠惰なる停止」の中に落ち込んでしまう。
 
(真−25−20)
 ハ−トではなく、上辺のマインドだけで物事を考える者は−−−「そうだとすると、全能者には、動きがあり、変遷があり、時間の流れが有ることになるが、それでは、相対的な時間を超越した<絶対者>と言えないのではないか。全能者も時間に拘束されるのか」−−−と問うであろう。 
 まことの話、全能者にも動きが有る。全能者が死体の如き存在でなく「生きた存在」であるならば、動きが有るのは当然である。
 動きが有るならば、全能者にも「変遷」が有る、という外ない。
 しかし、「時間は有るか」といえば、時間は無い。何故なら、全能者を縛り、限定を与える「外的な基準」が無いからである。
 全能者はあらゆる「(相対的な)対比」を絶している。
 それ故、全能者の「動き」や「変遷」を、何かを「基準」にして、それとの対比で「測る」ことは不可能である。
 全能者には「状態の変化」が有る。しかし、その「状態の変化」を「測る」ための絶対的な物差しは存在しないし、全能の絶対者を縛る「絶対的な時間」というものも存在しない。
 
(真−25−21)
 相対界では、「動き」と「時間の経過」は不可分一体である。それ故、相対界に慣れた人々の思考の中では、この二つを切り離して考えることはできない。
 しかし、「絶対界の全能者」にあっては、全能者の動きと相対的な時間は不可分一体のものではない。全能者の動きは、相対的時間を超越した、対比不能な動きである。
 それは、太陽もなく、月もなく、空もなく、何もなく、時を刻む時計もなく、時の進行を記録する物も全くない「無人の野」を、ただ独り、絶え間なく自己を乗り越え、超越しながら進んで行く、といった情景の如きものである。
 
(真−25−22)
 全能者の「自己超越の動き」は、全宇宙の全エネルギ−よりも遙かに巨大・膨大ある。
 この巨大さは、人間の想像を絶したものである。それは、太陽の連続する核融合爆発による巨大なエネルギ−どころのレベルではない。太陽が百万個集まっても、全能者の自己超越の動きのエネルギ−には到底及ばない。
 このことを前提にして、複数の大聖者に共通する「自己超越の動き」について見てみる。
 サハジャ・サマディの大聖者は、無限無量のエネルギ−で自己超越を続ける「大日我」と完全に連結・連動することを達成した者である。
 これは、絶え間ない不断の自己超越・向上一途の巨大な動き、無限大のエネルギ−が、大聖者を動かす主体になっている、ということを意味する。
 よって、サハジャ・サマディの大聖者の活動性は、必然的に、常人のレベルを遙かに超越した、巨人的・超人的なものになる。それ故、サハジャ・サマディの大聖者の圧倒的な活動性による圧倒的な感化力は、民衆の中に強烈に浸透し、「大いなる足跡」となる。
 従って、多くの宗教史の中でも、サハジャ・サマディの大聖者の業績は、どの大聖者のものであっても、必ず燦然と輝く太陽の如きものとなる。〔※註5〕
 
(真−25−23)
〔※註5−−−サハジャ・サマディの大聖者は眠らない、と言われる。それは本当か。
 先ず、「不生の大日我」は、無形無相の遍満する純粋意識であるから、不眠不休で活動している。よって、「真我=大日我」が眠らないのは当然である。
 では、「大聖者」の「具我」はどうか。これについては、「指」を例に取ると分かり易い。指は、その操縦者である「精神」に完全に随順している。指が動かないで休んでいる時も、その操縦者である「精神」が起きているなら、ただ操縦者が指を使用していないだけのことである。
 大聖者の内部で起きていることもこれと同じである。
 サハジャ・サマディの大聖者を動かしている操縦者は、「真我=大日我」である。そして、大聖者の「具我」は、大日我の道具であり、先の「精神」に対する「指」と同じ関係にある。よって、大聖者の「具我」が起きている時は、具我としての自意識を保ちつつ、真我の器具として肉体活動をする。一方、具我が疲労して休息し、眠っている時は、具我としての自意識はないが、この時の大聖者の意識は、真我の意識になっている。そして、具我が眠りから覚めた時には、具我は真我と「ツ−、カ−」なので、具我に真我の意識が流入する。
 よって、普通人は「寝ている間は意識が無い」ので「寝る前/目覚めた後」とでは「意識の分断」が有るが、大聖者の場合は、「具我が寝ている間の真我の意識を、目覚めた具我は受け取る」ので、大聖者の意識は「常に連続している」のである。
 このため、「大聖者は(具我)が眠っていても、眠っていない」「大聖者は不眠不休で活動している」と言われるのである。//〕〕〕 
 
 
(真−25−24)
 では、人類史上に燦然と輝かしい業績を残したサハジャ・サマディの大聖者とは誰か。
 超人的業績と足跡を残したサハジャ・サマディの大聖者としては、先ず、次の三人が挙げられる。
 即ち、クリシュナ、ゴ−タマ・ブッダ、イエズス・キリストである。〔※註6〕
 誰であれ、「サハジャ・サマディ」の本質についての「正しい知識」を学んだ上で、クリシュナ、ゴ−タマ・ブッダ、イエズス・キリストの三者の「足跡」について詳しく学び、検討を加えるならば、この三者共、「サハジャ・サマディの大聖者」に当たる、と識別できるであろう。
 
(真−25−25)
〔※註6−−−クリシュナより前の大聖者については、存在したとしても、記録の信憑性の点に問題が有るので、ここでは数えないことにする。
 残念なことに、キリスト者の多くは、クリシュナと釈尊について無知であり、この二者をキリストよりも一段、低く見る。また、仏教徒の多くは、クリシュナとイエズス・キリストについて無知であり、この二者を釈尊よりも一段、低く見る。また、クリシュナの熱狂的な信者であるヒンドゥ−教徒の多くは、釈尊とイエズス・キリストについて無知であり、この二者について一段、低く見る。
 こうした見方は、特定宗教の道を行く者の「偏狭な見方」である。
 超宗教の中道を行く者は、三者の表面的・物質的・肉体的な「形態」に気を奪われることなく、それらを動かしている「荘厳なる無為」を観想することで、三者を統一的に理解する(真−11−23)。
 そして、こうした「超宗教の統一的視座」からすると、三者の「媒体性能・媒体特性」に多少の差異があろうとも、三者共「サハジャ・サマディの大聖者」に当たる、と統一的に見ることになる。//〕〕〕
 
 
(真−25−26)
 また、過去にばかりに眼を向けるのではなく、自分の生きている同時代に眼を向けることも必要である。もしも、同時代にサハジャ・サマディの大聖者が生きて活動していたならば、それを見過ごすことは大きな損失になるからである。
 人類は、地球史上初めて驚異的な人口爆発の時代に突入した。
 六十億人〜百億人以上の人口が地球上を闊歩する時代である。これほどの人間を「感化・教化し、正法の道に導き入れ、正法の中で育成する」ということは、まことに容易ならざることである。
 人類を破滅の危機から救い、霊的覚醒に向かわせるためには、今ほどサハジャ・サマディの大聖者を必要としている時代は他にない。それに、こうした「膨大な人口」が有る以上、今迄以上の数の大聖者が出現しても、猶足りないほどである、とも言える。
 こうした状況を踏まえつつ、偏見に落ちないように沈着冷静・客観的に世界の宗教的な動きに目を向けて、熱心に観察・調査し、詳しく検討を加えてみると、現代でもサハジャ・サマディの大聖者が、現実に地上に誕生しているのを知ることができる。
 超宗教の中道を志す者は、この「千載一遇の好機」を無駄にやり過ごすことなく、大いなる祝福の機会とすることができるように、霊性修行の道に熱心に励むべきである。
 
(真−25−27)
 現代に生まれたサハジャ・サマディの大聖者としては、次の三人が挙げられる。
(ア)チベット仏教カギュ・カルマ黒帽派法王カルマパ16世(1981年没)
 チベットには、転生活仏制度がある。カルマパ十六世について知るには、まずこの制度を正しく理解することが必要である。
 そもそも、転生活仏制度は、生きながら「成仏」を達成した(=ニルヴィカルパ・サマディ入定を果たした)ラマ(グル=導師)が、霊的法燈を守るため、死後すぐに地上に転生して来る、という信仰に支えられた制度である。
 しかし、超宗教の中道を行く者は、この転生活仏制度を額面通り真に受けて信じてはならない。何故なら、聖者である法王の死後、その魂の転生身である赤子を見つけ出す長老たちが、絶対に間違いを犯さないという保証はどこにもないからである。また、そもそも、霊的法則に照らして、同じ魂が何度も何度も、同じ法王の座に就いて、衆生をずっと導くということは考えられないことだからである。
 
(真−25−28)
 同一の魂が反復継続して同一の法王の座に就任し続けることは有り得ない。その理由は主に次の二点である。
 第一点は、魂の健全な発展のためには、様々な経験が必要であることから、一つのことばかりに従事して、経験が偏ることは好ましくないので、本人の思う通りに同じ場所に何度も転生する自由は個別の魂にはない、というのが霊界の実相であること。
 第二点は、音楽の演奏でも、スポ−ツのプレイでも、学者の研究でも、何度も転生し、そのたびに前世と同じ事柄に精進し続けたならば、早晩、生まれた時から「天才」というレベルに達してしまうことである。こうした進歩向上は因果律の法則からして当然の帰結である。
 こうした因果律に照らして、転生活仏制度を見ると、十何世代にも渡って同一の魂が同一の法王の座に坐って「向上一路の修行生活」及び、熱心な衆生教化の働きに邁進するならば、悟らぬ魂もやがて悟りに到り、悟った魂ならばその代かその次の代では超絶的な霊力を発揮し始めることにならなければおかしい。
 つまり、十何世代もの間、同じ魂が法王の座に就いているのならば、釈尊の「過去七仏」説など軽く吹き飛ばし、釈尊以上の巨大な霊力と影響力を会得した法王がチベットに多数出現しなければ、理屈に合わないのである。
 
(真−25−29)
 これらの点からして、チベットの転生活仏制度は、本当に「成仏者」又は「同一の魂」が法王になるものと理解すべきではない。寧ろ、そのような外観を制度的に採ることで、信者たちの信心をその宗派に繋ぎ止め、彼らの信心を通して、彼らをその宗派の「道」の中で教化・育成し、「道」の外へ彼らが迷い出ないように守るための、(一つの方便としての)「信仰体制維持システム」と解すべきである。
 ところが、こうした、飽く迄「画竜」に過ぎない上辺の「信仰体制維持システム」である転生活仏制度に「眼睛」を入れて、命(=魂)を吹き込むべく、正真正銘、本当の「成仏者」が転生して法王に就任するということも、皆無ではない。但し、これは一大奇蹟である。
 こうした驚くべき奇蹟が実際に起きたのが、カルマパ十六世の時である。
 
(真−25−30)
 元々、チベットで転生活仏制度を最初に創設したのは、カルマ・カギュ派であるから(ゲルク派のダライ・ラマ制度はその模倣として、後から制定されたもの)、これは本家本元、転生活仏制度の「家元」で起きた一大奇蹟である。(こうした奇蹟が起きたのは、この派の帰依者たちの多くが、本当にこの制度を純粋に信じた結果と言える。)
 カルマパ十六世についての情報は、インタ−ネット時代に入った日本でも非常に限られたものでしかない。しかし、カルマパ十六世が「虹の瞑想」(チベット密教に伝わる秘法。「空」の瞑想によって、本当に「肉体の物質性」を消滅させてしまう技法。完全なる幻身・虹の身体の獲得とも言う)を実践し、肉体を消しつつある場面の貴重な証拠写真も現存している。
 また、アメリカ伝道中の客死と伝えられるが、入院中の病床で毎日全く異なる病状を現し、その病院の診断カルテにも、相互に関係のない病気がサイコロの目のようにクルクル替わって出現したことが記録されている。この現象は、チベット密教の奥義の一つ、帰依者たちのカルマを身に引き受け、次々に消化して行く「大慈悲の瞑想法」である。
 こうしたことは新米の聖者に出来る芸当ではない。それ故、カルマパ十六世は、サハジャ・サマディの大聖者と見るのが相当である。〔※註7・註8〕
〔尚、カルマパ十六世は、大乗仏教(密教)の最も正統な流れを受け継ぐ法燈の中での、釈尊に匹敵する最高の成就者である点において、学術的にもとても貴重で重要な存在である。日本の仏教・密教の発展のためにも、日本の仏教・密教関係者は、カルマパ十六世について徹底的な調査・研究・検証作業をすべきである。//〕〕
 
(真−25−31)
〔※註7−−−チベット仏教には、主に四つの宗派がある。ゲルク派・ニンマ派・カギュ派・サキャ派である。ゲルク派がチベット最大派閥である。この派の開祖がツォンカパ。この派の法王がダライ・ラマと呼ばれる。ダライは大海、ラマはグル(導師)の意味。ダライ・ラマ五世ロサン・ギャンツォが政権を掌握した時から、ゲルク派法王ダライ・ラマがチベットを政治的に統治するシステムになる。言わば、代々のダライ・ラマがチベット大統領を兼務する形である。ダライ・ラマのゲルク派は、正統派として経典学習(顕教)を重視(優先)する流派であること、及び政治の執務も多忙であること、の二点により、実際の深い瞑想の実践については不得手である。現在のダライ・ラマ十四世も、自身のサマディ体験については「未達成」のスタンスを取っている。
 一方、カギュ派は、文字による経典学習よりも、実践的瞑想(密教)の体得を重視(優先)する流派である。「基本」のできていないレベルの者は「顕教」からコツコツと学んで行く必要が有る。//〕〕
 
(真−25−32)
〔※註8−−−カルマパ十六世が本物の「成就者」であったため、その後継者問題は、大問題に発展した。後継者、カルマパ十七世としては、二人の少年が並び立つことになり、その座を争うことになった。
 一人目のカルマパ十七世は、カルマ・カギュ派総本山のツルプ寺に、青年になるまで住んでいた(1982年生まれの)少年である。(後に、ダライ・ラマに教えを受けに行く、との理由でチベットを脱出した。)
 ダライ・ラマ亡命政権も、この少年について「確かに先代の転生者である」との正式な認定声明を(一応)出している。しかし、この少年が(如何に優れた魂の持ち主であるとしても)、カルマパ十六世と同一の魂の転生身である可能性は極めて低い。
 その理由は二つ有る。
 
(真−25−33)
 第一に、カルマパ十六世がサハジャ・サマディの達成者であるとすれば、彼が再びカルマパ十七世として転生して来るなら、その霊力は十六世の時以上に凄いものになるはずである。そのようなことが一年と間を置かず、連続的に起こる可能性は極めて低い、と考えざるを得ないこと。
 第二に、カルマパ十七世の擁立に当たっては、中国共産党の関与の噂が有ること。
 嘗て、日本の関東軍情報部も、チベット仏教を信じるモンゴル人を懐柔するため、蒙古の総ての活仏の中の最高位にあるドガン活仏を使い、彼の託宣によって、外蒙古で憤死したノイン大活仏が内蒙古に転生したことにする工作に成功した。
 これと同様、中国共産党は、一方で百万人を越えるチベット人を虐殺しながら、それだけでなく、中国政府傀儡の活仏を作ろうと工作した事が強く疑われている。
 カルマパ十六世の死後、約十年が経過した1990年にカルマパ十六世の遺書が発見され、「十七世として転生する家の両親の名前と(その時の)自分の名前」が書き残されていた、という話になっている。
 しかし、「転生する家の両親の名前と(その時の)自分の名前」までが「予言」されていた、というのは「出来過ぎ」で「やり過ぎ」と言わざるを得ない。
 何故なら、真の「大聖者」がその種の予言を細部に渡って克明に残すことは、霊的法則からして考えられないからである。
 と言うのも、もし仮に、転生の細部に渡る予言が有ったなら、如何に秘密にしていても「情報漏れ」の危険が無いとは言えない。ひと度、情報漏洩したならば、邪霊の軍団の力が働いて、大聖者の転生を阻止しようという反対勢力が、予言に有るその両親を惨殺するという事態が発生する可能性が極めて高い。
 よって、「大聖者」が自身の転生の予言をする場合は、こうした危険を避けるため、飽く迄も「漠然とした枠組み」でしか予言しないし、それ以上詳細な予言は(「法」として)「してはならないもの」なのである。
 
(真−25−34)
 では、カルマパ十六世の側近の長老たちが見つけ出した少年、即ち、インド側の(亡命先)で擁立したもう一人の少年が、カルマパ十六世の転生身なのか。
 しかし、その可能性も低いと言わざるを得ない。その理由は、先の第一の理由と同じで、サハジャ・サマディの大聖者が、一年と間を置かずに連続して転生することは「起こり得ない」とは言い切れないが、今までの世界の宗教史上の記録にないことであり、その可能性は極めて低いと言う外ない。(普通は五年以上の間を置く。)
 ただ万が一、二人のカルマパ十七世のうち、一方がカルマパ十六世の本物の転生身であるならば、恵まれた修行環境からして、早晩、前世の記憶とサマディを回復し、その高いサマディは周囲を驚嘆させ、二十歳代後半からは凄まじい霊力を発揮し始めるはずである。
 それ故、彼ら二人の行動に注目していれば、自ずと「白黒」がはっきりする。//〕〕
 
 
(真−25−35)
(イ)シュリ・チンモイ(1931年〜)
 ベンガル地方のシャクプラ村に生まれる。チンモイとは、サンスクリット語で「神の意識に満ち満ちた」という意味。
 7人兄弟の末っ子として生まれた彼は、11歳で父を、12歳で母を亡くした後、シュリ・オ−ロビンドのアシュラムに入って生活する。アシュラムに入った年に、過去世で達成したニルヴィカルパ・サマディを思い出す。その後、高い瞑想の中で霊界との交わりを深めつつ、自身のサマディをより強力にし、安定させ、完全に定着させるべく修行する。
 シュリ・オ−ロビンドは、自分の弟子と言うよりも、自分を遙かに上回る霊性を達成している彼に、自分の姓であるオ−ロビンド・ゴ−シュの「ゴ−シュ」を送った。それ故、彼は、チンモイ・クマル・ゴ−シュと名乗るようになる。
 
(真−25−36)
 1964年、三十三才の時に、シュリ・チンモイは、自身の悟りを西洋社会に伝えるように神に促され、アシュラムを出てニュ−ヨ−クに渡る。最初の一年間だけ、インド領事館で事務の仕事をして生計を立てる。そうしながらも、霊的な活動を力強く開始し、各国から瞑想の弟子を集め始める。
 以来、著作活動や講演、絵画や詩や戯曲などの創作、バジャン(宗教歌)の作曲、ピ−スコンサ−トや十二時間ラン・二十四時間ランなどのウルトラマラソンの主宰と実践、ボディビルの実践等々、様々な表現活動を驚くべきバイタリティ−で展開し続けている。
 また、1970年からは、国連において公開瞑想を定期的に主宰して、国連関係者の意識の変容に寄与している。また、ト−チ(聖火)リレ−で世界平和を訴えるピ−スランという世界規模のイベントも、彼の主唱による。
 彼の活動は膨大で多岐に渡り、とても常人のわざとは言えないことは、その業績を検証すれば明白となる。また、あまり表沙汰にはならないが、弟子たちへの癒しの奇跡も数知れず、また、彼の主宰する霊的イベントが有る時の天候は「天気予報では大雨」にも拘らず、快晴であったことも数え切れない。
 
(真−25−37)
 シュリ・チンモイは自分のヨ−ガを「ミリタリ−(軍役的)ヨ−ガ」と呼ぶことがある。彼のヨ−ガは、シュリ・オ−ロビンドのインテグラル・ヨ−ガに比べ、よりシンプルなバクティ・ヨ−ガ(特定対象礼拝)を基本に据える。即ち、弟子がグルであるシュリ・チンモイに意識を集中し、誠実な帰依心を捧げて瞑想することで、その弟子の意識に光明を流入させ、意識を浄化し、変容・向上させるものである。
 但し、単なるバクティ・ヨ−ガではなく、ウルトラ・マラソンなどの強烈な肉体的鍛練を同時に実践することを勧める。正しい瞑想技法に支えられたマラソン(メディテ−ション・ランニング)は、強力な浄化作用を持ち、修行者の不浄な内的衝動を完璧に洗い流してしまう。
彼は弟子たちに、様々なマントラ・瞑想的絵画鑑賞・バジャン(宗教歌)の熱唱・サマディの写真に対する意識集中と瞑想の訓練・マラソンやボディビルやテニス等々の肉体鍛練・無私の奉仕行の実践等々をやり続けるように仕向け、自己向上・自己超越の流れに乗って、人生を一気に駆け抜けさせ、ゴ−ル(サマディ)まで導く。これが彼の手法である。
 弟子は、真剣にそれらを実践しようとするならば、聖なる戦士の如き生活が要求される。それ故、「ミリタリ−(軍人の、軍役的)ヨ−ガ」と言われる。
 
(真−25−38)
 また、シュリ・チンモイは、自身の過去世について幾つか告白している。(それを信じるか信じないかは自由である。しかし、超宗教思想の見地から、客観的に比較対照し検討するに値するものを二つ挙げる)

1.クリシュナの一番弟子であるアルジュナであった 
2.アメリカ独立宣言を起草し、第三代合衆国大統領に就任したトマス・ジェファ−ソンで   あった
  
 アルジュナは、森に籠もってクシャトリア(武人)として、弓の鍛練に明け暮れ、やがて当時のインドきっての強弓使いとなる。そして、「バガヴァッド・ギ−タ」にある如く、クルクシェトラの戦いで活躍し、インドの社会に正義と平和を打ち建てた人物である。
 強弓使いとしてのアルジュナと、現在の肉体鍛練を重視するシュリ・チンモイとの共通性は無視すべきではない。また、正しき霊感溢れるアメリカの「独立宣言」を起草してアメリカの礎を築き、若者の教育のためにバ−ジニア大学を創設する一方、宗派の争いを嫌って、オカルト的な奇蹟の記述部分をカットして編纂した「ジェファ−ソン聖書」によって、何を信じるかよりも、実際の「道徳的で清い生活の確立」こそ重要、と提唱したトマス・ジェファ−ソンの志と、インドからアメリカに渡り、西洋文明の中に「霊性の真理」を伝達し、「聖なる生活」の確立を指導しているシュリ・チンモイとの共通性(又は因縁)にも、注目すべきである。
 こうした二つの前世を踏まえると、彼の「ミリタリ−・ヨ−ガ」の語には、より一層深い意味が込められていると見て取ることができる。
 
(真−25−39)
(ウ)シュリ・サティア・サイババ(1926〜)
 「サイ」はイスラムの「聖者」を意味し、「ババ」はヒンドゥの「父親」を意味する。つまり、イスラム教とヒンドゥ−教の垣根を取り払った超宗教的立場からの名前である。
 十四才の時に、前世の記憶が蘇り、同時に超越的な霊力も回復し、シュリ・サティア・サイババとして、真理と幸福を求める人々に自身を捧げる生活に入った。
 一つ前の前世について、彼はシルディのサイババである、と宣言している。シルディ(村)のサイババは、既に数々の奇跡を起こしながら、帰依者の霊的覚醒を促し、礼拝意識の高揚を促して来た偉大な聖者であった。そして、八年後に、南インドのヴィシュヌ信仰の厚い家庭に再び転生するとの予言をして、1918年に逝去した。その予言通り生まれたのがシュリ・サティア・サイババである。
 もしも、この流れを真実として受け入れるならば、現在のシュリ・サティア・サイババが強大な霊力を備えて、多種多様な「方便(便法)」を使って多くの人々の霊的覚醒を促し、「梵我一如」のウパニシャッドの霊的真理を宣揚していることも、因果律に基づいた当然のステップ・アップとして首肯できるであろう。
 
(真−25−40)
 また、シュリ・サティア・サイババは、2020年、94四才で逝去し、その八年後、インドはマイソ−ル州グナパルティ村に転生し、21才の時に、過去世を思い出し、プレマ(至上の愛)のサイババとして圧倒的な霊力を揮う、とも予言している。(この予言が本当に成就するか否か、皆で注視して行けば良い。)
 シュリ・サティア・サイババが教える道は、主にバクティ・ヨ−ガ(特定対象礼拝)を基本に据える。即ち、弟子がグルであるシュリ・サティア・サイババに意識集中し、誠実な帰依心を捧げて瞑想することで、その弟子の意識に光明を流入させ、意識を浄化・変容・向上させるものである。但し、バクティ・ヨ−ガ一辺倒ではなく、叡智(ジュニャ−ナ)ヨ−ガの要素も加味して「不二一元哲学」を優しく説示し、加えて、実践の容易な「光明瞑想技法」や伝統的な「ガヤトリ−・マントラ」の正しい奉唱法を教え、また「無私の奉仕行」と「日常の仕事」を「神に対する誠実なる礼拝行為」として行なうことや、日々、熱いバジャン(宗教歌)の奏上をすべきことなどを教える。
 特に、24時間連続バジャンのイベントは、シュリ・チンモイの24時間ランと軌を同じくする行事と言える。      
 
(真−25−41)
 しかし、「シュリ・サティア・サイババはペテン師だ」と非難する者も多い。これは、シュリ・サティア・サイババが伝道の方便(便法)として、自在にオカルト的な力を操って奇蹟を起こし、そうした奇蹟を楽しそうに「一つのリ−ラ(遊戯)」として開演している様子を見て、無知な徒輩(ガトラモ)が、自分たちなりに下した結論である。
 確かに、手品師の如き振舞いは、多くの誤解を受け易いものである。しかし、上辺だけを見て判断してはならない。
 或る程度、正しい瞑想をする力の有る者ならば、シュリ・サティア・サイババ自身が模範的に唱えるガヤトリ−・マントラの波動を聴いても、彼自身が模範的に歌うバジャン(宗教歌)に耳を傾けても、そこに「サマディの波動が有る」ことを感じ取ることができるであろう。
 また、彼の「眼」に現れる「大静謐の波動」を見ても、信者のエゴを一瞥しただけで震え上がらせる聖なる威厳に満ちた「眼光」を見ても、また、プッタパルティ一帯を覆う巨大な大光明のオ−ラを見ても、帰依者の熱烈なバジャンの奏上に感動して大慈悲を垂れる愛の眼差しを見ても、彼が疑いようのない大聖者であると識別できるはずである。
 
(真−25−42)
 真の聖者は、他の真の聖者を容易に知ることができる。故に、新興宗教の教祖が、シュリ・サティア・サイババをペテン師だと非難するならば、それは、その教祖の方がペテン師であることを自白しているに等しい。
 また、ハタ・ヨ−ガに習熟して、長期間断食できる能力を会得したとか、読心術を会得したとか、空中浮揚ができるなど言う者があったとしても、シュリ・サティア・サイババについては「本物かペテン師か自分には識別できない」と言うならば、その者のヨ−ガの力は極めて低級なものに過ぎないと言うしかない。何故なら、「霊的な正しい識別力」をもたらすヨ−ガこそが正統なヨ−ガであり、それこそが実践者を間違いなく正しいゴ−ルへと導くものだからである。
 
(真−25−43)
 ところで、サハジャ・サマディの大聖者が複数存在した場合、その「媒体性能」が問題となる。
 シュリ・サティア・サイババは、その身において、既にイエズス・キリストの媒体性能を凌駕している、と表明している。世界中のキリスト者は彼の大胆な宣言にびっくり仰天するであろう。しかし、シュリ・サティア・サイババの長年に渡る実際の「巨大な霊的業績」と「彼が行使した奇蹟の記録」を詳細に調査すれば、「成程、イエズスの能力を上回っている」と納得できるであろう。
 よって、シュリ・サティア・サイババの予言通り、次にプレマのサイババとして転生して出現することがあるならば、間違いなく人類が未だかつて経験したことがないほどの「圧倒的な霊力の開演(パフォ−マンス)」をする大聖者となるであろう。
 これは実に良き知らせである。
 
(真−25−44)
 「媒体性能」に関して言えば、シュリ・チンモイの場合、アメリカにおいて長年活動しており、一部の人々の中では夙に有名であるが、残念ながら(西暦二千年の段階では)全米にその名を轟かせているわけではない。嘗て世界一のスプリンタ−だったカ−ル・ルイスもシュリ・チンモイを師と仰いで、彼の事を折々に宣伝しているが、それでも然程有名にはならない。
 その理由の一つは、彼が描く膨大な素描画が一般人からすると「稚拙極まりないもの」に見える点にある。それ故、彼を馬鹿にするわけである。これはシュリ・チンモイの媒体性能の問題であり、彼が前世において絵画の修錬を積んで来なかったことと関係が有る。(但し「マインド停止の絵画」として見れば価値が有るし、絵の目的に「救霊の祈り」が籠められている事を感じることができれば、その膨大な量に感動できるであろう。)
 また、実際の「瞑想の伝授」に重きを置く手法であるため、〔釈尊の「十難に関する無記」(真−8−29、30と同じく〕修行者が「頭でっかち」に陥らないようにと「深い教義を語らない」で「簡単な事しか言わない」態度を貫いていることも、人々の興味を引かない理由になっており、且つ又「彼の教えは浅い」という非難を招く理由になっている。(しかし、こうした非難をする者に限って高慢で、正しい「祈りと瞑想」を疎かにしているものである。)
 
(真−25−45)
 それに較べて、シュリ・サティア・サイババの場合は、「各種の能力」において高い完成度を示しており、オカルト的能力も自在に行使している。それ故、「詐欺師・手品師」と馬鹿にする者たちがいる一方で、彼の恐るべき霊力に畏敬の念を捧げて「帰依者になる者」も実に沢山誕生することになる。つまり、「彼の感化力・説得力・訴求力は強大」と言える。
 1999年には、インド・ヒンドゥ−教の最大組織であるV.H.P.(ヴィシュヴァ・ヒンドゥ−・パリシャ−ド)の総裁であるアショク・シンガル氏とその幹部数人がシュリ・サティア・サイババに帰依の礼拝を捧げるに到った。
 インド最大の信徒数を誇り、インド政府与党を支える母体団体でもあるV.H.P.のトップがシュリ・サティア・サイババに頭を垂れたという事は、事実上、全インド九億の民の(信仰上の)トップにシュリ・サティア・サイババが立ったことを意味している。
 この事実からしても、シュリ・サティア・サイババを軽々しく「詐欺師」呼ばわりすべきではない。彼を「詐欺師」呼ばわりすることは、V.H.P.をも愚弄することになるからである。実に、人々の帰依の輪は巨大なうねりとなって確実に広がっているのである。
 
(真−25−46)
 −−−以上、現代のサハジャ・サマディの大聖者を三人挙げた。
 彼らは真に偉大なヨ−ギである。よって、三人とも「ヨ−ガの奥義」「密教の奥義」に精通している。彼らは、三人ともチベット密教で言う「完全なる幻身」を行使することができる。即ち、肉体身を一ヶ所に置いたまま、同時に他の場所に「自身の霊体」を現し、それを完全に物質化し、ちゃんとした肉体身にすることもできる。つまり、同時に二つの場所で活動することができる。(但し、超宗教の立場からは、無理に信じる必要は微塵もない。)
 事実、シュリ・チンモイの場合も、シュリ・サティア・サイババの場合も、(セレブレ−ションなどのイベントが開催されていて)その場所に居ることが多数の目撃者により確認されているにも拘らず、同じ時刻に他の場所でもこの大聖者が目撃されていることがある。こうした証人の証言は、実際に幾つも存在する。
 また、カルマパ16世が死ぬ前に、弟子たちのカルマを自身で消化したのと同様の技法を使用して、シュリ・サティア・サイババも、帰依者の悪いカルマを身に引き受け、暫くの間病気になり、回復する時を予言して、その時に全快する、という芸当も見せている。
 また、シュリ・チンモイが膝を悪くして足を引きずっているのも、帰依者の悪いカルマの一部を引き受けているためであると、本人自ら説明している。
 
(真−25−47)
 以上、こうした「サハジャ・サマディの大聖者」の「諸特徴」をしっかり押さえて置けば、「贋グル・似非大聖者」を見分けることも、それ程難しいことではない。
 その人の「無知」と「タマス(荒頽的暗黒粘着性)」だけが、「にせ者」を「本物」と見間違う原因である。能々(ヨクヨク)、この事を肝に銘じるべきである。「真−22−25(1)」参照。
 もしも、「純粋な光」を心の底から求め求めて、謙虚に、そして熱心に祈るならば、その時には、その人の「機根」の中では「サットヴァ」又は「甘露的光明志向性気質」が活発に機能しているので、「正しい啓示と導き」を受けることができ、本物の「サハジャ・サマディの大聖者」を正しく見分けることが可能になる。
 
(真−25−48)
 これで分かる通り、「外界の大聖者が始めに有りき」ではない。「内なる純粋な渇望」こそが「正しき道」の「始め」である。(タマスに導かれていれば、ニセのグルの許に引き寄せられてしまう。)
 「真の大聖者」から導きを受けたいのならば、先ず「内なる純粋な渇望」を燃え立たせることである。或いは、「聖者」の導きを望まなくとも、「真の神」の導きを望むのならば、先ず「内なる純粋な渇望」を燃え立たせることである。
 「正しい宗教の道」は、「純粋な渇望」無くしては始まらない。
 「正しき識別力」という「叡智」を強く熱く渇望し、飽く迄も何処までも、渇望し続けることである。そうやって祈り、集中して行くこと。
 これが「純粋な渇望」に終始する「純粋な渇望」一乗の道であり、特定の宗教・宗派に拘泥しない「無為一乗」の「超宗教の大道」である。(真−11−13)
 
 最後に、これまでの総ての法話をまとめて一句−−−
 
   どんと燃ゆ 千々降る雪を さっと消し  
 
 −−−以上で、「超宗教の般若ヨ−ガの礼拝観法」の「最終段階」の解説を終了する。
 
 
★★★ このあとは、(『般若心経完全マスター・バイブル』後篇)=『大日空王主唯心法界スートラ』をお読み下さい。★★★  
 
 

真我瞑想法スートラ 第25章



このページの最終更新日 2004/3/20

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