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思考のバグ前半item detail

思考のバグシリーズ前半New!

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「小乗の悪徳」とはどのようなものか?
上座部仏教的な思考をする人。
特に、「ブッダ論理学」を提唱している石飛女史に向けて。

思考のバグ1

石飛女史の掲示板(「彼女のHP」で「マジカナ道場」を選択して下さい)にて、たーぼー様が次のように発言しています。

・・・(たーぼー氏)・・・・・・・・・・・・
真理表に従えば真理に到達できると断言するなら、まず先生がそれを実践して真理を体得してなければいけないはずです。そうでないなら当てずっぽうの事を言ってることになります。
・・・・引用終了・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ところが、石飛女史が、まさに、「当てずっぽうのことを言っている」事例が、以下のこれです。

・・・(石飛女史)・・・・・・・・・・・・・
ixtlanさま
たぶん、ixtlanさまが求めるものは、アドヴァイタ的な悟りでしょう。それは、忘我の状態をもたらし、喜びに満ちあふれた境地です。至福と名づけられるようなものです。
それなら、わりと簡単に手に入れることができます。絶対者と合一するという体験をすればいいのです。脳卒中になってもいいかもしれないけど、確実とは言えないし、リスクが多すぎます。
ハタ・ヨーガなどのヨーガでもいけるし、仏教でも、途中でやめればそれに至ります。たいていの人は、仏教でも実質アドヴァイタになっているように見えます。
だけど、龍樹とブッダは、その上です。はるかに上です。ブッダは、ほんとに上です。
・・・・・引用終了・・・・・・・・・・・・・・・・・・

石飛女史のような仏教側は、ヴェーダンタ密教を「低次の教え」と位置づけなければ、存在理由を失ってしまうので、「自分たちの宗教が一番」と主張することに必死です。特にチベット仏教ではこの点が強調されます。
彼女は、言います。
「それなら、わりと簡単に手に入れることができます。絶対者と合一するという体験をすればいいのです。」

「わりと簡単??」とは、恐れ入る発言です。
確かに、アドヴァイタ体験を禅などで語る人は、多くなっています。
しかし、「不死の甘露のひとしずくの体験」と、「不死の甘露の大海に没入する体験」とでは、全く一緒にはできないものです。
彼女が、後者の体験「絶対者との合一するという体験」を「わりと簡単にできる」と推測するは、「当てずっぽう」の「ウソ」です。
「明らかなウソ」と認定されました。
彼女のレベルを観ると、あと2〜3回、輪廻転生して人間修行をしても、その体験に到達することは「全く無理」でしょう。

「わりと簡単〜〜」だと言われる「絶対者」って何でしょうか?

「更にその上のレベルに行くと、絶対者の存在自体の否定がある」
というのがブッダ論理なのでしょうか?
いやはや、なんとも・・・・。(苦笑)

以上、

「思考のバグその1」 の指摘  でした。

補足

わりと簡単〜と石飛女史が言う「絶対者との合一」体験の
さらにその上に、「絶対者を否定した高度な仏教体験がある」というならば、
低い体験としての「絶対者との合一」は、真の絶対者との合一ではないでしょう。
とすれば、それは、「絶対者の合一と勘違いされた体験」という意味になります。
つまり、
「絶対者との合一と勘違いされる体験」は、わりと簡単よ〜〜、
という主張ならば、論理一貫性がある、と言えます。

ヴェーダンタ密教の立場からは、絶対者との合一体験は、極めて困難な最高難度のヨーガである、と教えます。



思考のバグ2

石飛掲示板の常連ザポ氏の仏教理解に基づくと、   
「縁起の法それ自体は、生起を保障する理法ではない」
ということが、石飛学派には、認識されていないようです。

縁によって、滅があり、生起がある。
      ↓
次々に、滅がある、滅がある、滅がある・・・となって、
その滅において、生起の縁が内包されていた場合には、
生起の縁も 次々に滅して行ってしまう。
すると、「縁起の法」それ自体の理によって、生起がなくなってしまうのです。

生起の壊滅・・・そのとき、滅するものもない・・・・

これぞ、不生不滅だっっっ となるのでしょうか?(笑)

ところが、ザポ氏は、「無常」を「生起と滅の相互継続」のような観念で語っています。

しかし、「滅する性質のものは 〜である」という命題の中に、

縁起の法それ自体には、「滅と生起の相互継続」という観念は、一切入っておりません。
ザポ氏が「いや、入っている」と強弁して、論証なされば別ですが、無理でしょう。

ゆえに、この点、ザポ氏の「無常観」は、仏法のそれではありません。


「滅する性質のもの」が滅して行ったとき、「生起する」縁も同時に滅していったら、
「おわり」です。

といって、「生起する縁」は、滅しない、と言い始めたときに、

この人、異端?  となります。

まことに、「生起する縁もどんどんと滅してしまう」とするならば、
新たな生起は、なくなってしまいます。

新たな生起のないところに、「滅する性質のもの」が生起することはできません。

さあ、困りましたね。

ここで、彼らが取る態度は、昔からたった1つです。
「生起する縁の滅」について、「ヤバイから触れない」という態度に徹するのです。
上座部仏教やスマ長老や石飛学派は、
「この点の思考のバグを意図的に隠蔽している」疑いがあります。

「縁起の法は、生起を必ず保障する理法ではない。」
この命題が真であるときの、困った事態に「眼をつぶる」のが、小乗系仏教ですね。

以上、
「思考のバグその2」  でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

思考のバグ3

「十二支縁起」を基礎に置く場合、「無明」という因果のスタート地点をどう理解するか?
これがポイントになります。
しかし、石飛学派に、その深い考察と分析があるとは思えません。
単なる「盲信」があるだけのようです。
無明があるから「行」がある。
それは、縁起だから、無明を滅するならば、行も滅する。というのが彼らの理解です。

ここで、重要論点を指摘しましょう。
「行」を「石油」に譬えてみましょう。
地球には、石油が多量に埋蔵されていますが、やがて枯渇することが指摘されています。
さて、「無明」から流出する「行」を石油に比喩するならば、「行」もそのままの流出を放置すれば、枯渇するのでしょうか?

もし、枯渇するのならば、放置すれば良いだけで、行は滅します。
「枯渇しない」と答えるならば、「なぜ、枯渇しないのか?」「永遠の泉なのか?」について、論証しなければなりません。

このどちらの選択肢も、彼らには、都合が悪いものです。
ゆえに、この点には、シカトしています。意図的に眼をつぶっている疑いがあります。

この論点の指摘で、何が見えるかというと、
彼らは、「十二支縁起」のスタートの「無明」の意味も真相も定義も正しい理解も、全くできていない、
ということです。

「無明」とは、「行」を生み出す永遠の泉なのか?

この問いだけでも、彼らの「盲信」が透けて見えてくるでしょう。
それだけ、超いいかげんな仏教理解なのです。
経典の盲信・・・・「経典だから間違いない」と、まるで、公理にしてしまっているような・・・。

哲学や分析をしようとしない、「ニセの縁起観」の実践ではないでしょうか。

以上、
「思考のバグ」その3  でした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


思考のバグ4

「ブッダと龍樹の論理学」では、128ページに、「龍樹は絶対主義の立場をとったとする」という見解を排除しています。
132ページでも同様に、「第一義諦は、世俗諦とは異なる絶対的な世界なのではない」と明言しています。

勿論、ここが、「最も重要な分水嶺」です。
本当は、「絶対主義ではない」という主張のために、本10冊分ぐらいの検討をしたというのならば、それなりにご立派だと評価しますが、輪廻と涅槃は区別がない、という龍樹言説だけを根拠にしているので、その解釈の仕方によって、いかようにもなる言葉を根拠にしていて、決定的ではありません。

なにしろ、ヴェーダンタ密教は、「梵我という絶対世界主義」です。
ですから、「これとは全く違う」と主張する以上、ここに最大の力点をおかねば駄目です。

ところが、軽薄にも、右左の分岐路で、「龍樹の八不は、絶対主義とは違うに決まってるわ」的な想念で、「転倒した判断」をしてしまったがゆえに、以降の全部の言説が、「転倒言説」になってしまったのです。

ヴェーダンタ密教は、「龍樹の八不」を「絶対世界の梵我」しての「第一義諦」とします。
ゆえに、この形而上的な極点の立脚点からすると、
形而下的な現象世界、認識論世界の論理は、全部、めった斬りできるのです。
「論理はないという論理」だけしかない、という「絶対的梵我世界」からすれば、
「石飛ブッダ論理学」は、ズタズタになるだけです。

「絶対梵我世界」には、あらゆる「形式」が存在しないからです。
龍樹は、形式の破壊者です。
形式をすべて跡形もなく破壊すると、内実だけが残ります。
そういう論法なのです。
ゆえに、石飛ブッダ論理学は、「龍樹は絶対主義ではない」とした時点で、「終わっている」主張なのです。

この「絶対的な極点の立場」は、アインシュタインの知性でも否定の刃を届かせること不可、と私が述べたら、ザポ氏は、「お前は、アインシュタインより頭が良いのか」とツッコミを入れて来ました。
ザポ氏「あわれ」ですね。私の立場は、アインシュタインよりも頭がよいことが決まっている「梵我の絶対世界」に立脚しているがゆえに、アインシュタインでも対抗できない、ということに過ぎません。そんなことも「読み取れない」のですね。ザポ氏あわれ。

ザポ氏が「あおみさんの誤謬を検証」という反論を投稿していますが、驚くばかりの支離滅裂性で、彼が「残念な子」であることを初めて知りました。
もう少し、ましな子かと思っていました。勘違いでした。

>
> 無常とは常住ではないということであり、生だけ、滅だけの状態が現象のどこにもないことをいうということである。
>

だから、生起したままの常住があったらどうするのよ、と金塊の事例を出したら、王水をひっかける、とか、ヨードチンキをひっかける、と言い出した。<再度爆笑>
「汝の立脚しているこの地面」はどうよ、と、再度反証を出してザポ氏万事休す。
「この地面」の常ならずの滅を観察することはできない。
「観察する認識」だけを「メイン」に据えるならば、「生だけ、滅だけの現象のどこにもない」の反証は、人間の寿命の間であれば、「個人的にはある」ことになります。

> 生じることがないのに、滅することなどありません。
> 果が先にあって因が後から出るような話になるからです。
>

だから、なぜ、生じるのか? っていう哲学的問題なのですね。
「因果だ」というのなら、「生じる原因」を述べねばなるまい。
ザポ氏は、それもできないのに、こんなことを述べているわけです。

うざいから、ストーカー的にまとわりつくのは、やめよ、ザポ氏。
君は、もう敗残した論外の人間だ。
まとわりつくほどに、君の知性の劣悪さ、性格の劣悪さが知れることになるから、
本当に、私へのストーカー行為は、やめておきなさい。

以上、

「絶対主義」を あまりに軽薄に排斥した石飛女史の思考のバグを指摘しました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


思考のバグ5

石飛女史において「世俗諦」の定義は、「虚妄なる法」ということです。
「一切の虚妄な法は、諸行(サンスカーラ)である」(中論13・1)

しかし、石飛女史が本当にこの意味をわかっているか、というと、甚だ疑問です。
「世俗諦」の概念範囲として、個別に色々な事柄に対して「これは世俗諦ですか?」と
彼女に対して、問い詰めて行くと良いと思います。
本当に正しく理解しているか、判明して行くからです。

石飛女史は、「世俗諦」を、「言葉の働き」そして因果関係の連結をさせる認識作用、というように使っているフシがあります。
もし「ブッダ論理学は認識論」と言うのならば、「彼女の世俗諦」は、認識論の範囲内に留まることになります。

私が、わざと「存在という世俗諦」という表現をしたら、
ザポ氏が、なんだそりゃあ! みたいなツッコミをして来ましたね。
ザポ氏の理解では、ブッダ論理学は「認識論」だから、存在論を含む世俗諦では、トンチンカンだ、と言いたいのでしょう。
勿論、そんなことは、こちらは、了解して、わざと使っている言葉です。

そもそも、龍樹という覚者が、「第一義諦と世俗諦」のみで、「第三諦はない」と断言することができるのはなぜか?
ここが、ポイントになります。
「第三諦はない」のです。
つまり、「世界宇宙全体」としても、「2諦のみだ」と言い切っているのです。
ゆえに、「第一義諦と世俗諦」の2諦に、「世界と宇宙の全体、そして、存在のすべて」が含まれることになり、当然、「存在論を含む」ということになるのです。

だから、私は、「存在という世俗諦」という表現をしたわけです。
ザポ氏には、それが理解できない。きっと、石飛ポンポコリン女史にも理解できてはいないのではないでしょうか。

「存在は、認識されなければ、存在にあらず」と認識論者は、述べるでしょう。
しかし、認識者が、生まれる前から、地球は、存在しているのです。
認識者が、生まれる前から、「日本語」は存在して運用されており、日本に生まれた者は、それに「接して」日本語を習得するのです。
認識者が、日本語に接した瞬間に日本語が初めて誕生して存在を始めた、というわけではありません。
これは、「主観と客観」に関わる論点です。

ニュートンの万有引力の法則は、「世俗諦の側面を持っている」と言えましょう。
それを 我々は、彼の発見によって知りました。
しかし、我々がそれを認識できない時代の古代であっても、万有引力の法則は「働いて」いたからこそ、我々は地球の地面に住んでいられるのですね。

「学集論」「父子合集経」に「知識の対象は世俗諦と勝義諦に尽きる」とあり、「聖説真実三昧経」に「世俗(諦)と勝義(諦)であり、第三の諦は全く無い」とあります。
チャンドラキ−ルティ(月称)も、自著「入中論」の「自注」で、「総てのもの(=諸法)の二種類の本質が示された。世俗(諦)と勝義(諦)である」として、壺や布切れ等の物質的存在(=諸法)は、世俗諦としての側面を持つ、と解しています。

「第3諦がない」と断言するならば、世俗諦の中に、未だ認知されない物理法則も、認知されたときには、入ってこなければならないのです。

空海は、密教の立場から「声字実相義」で、相対界の存在物と諸現象を一種の記号(=音声と文字)と見る見解を取っています。
これは、認識論に留まる見解ではありません。(そう狭く解釈する真言密教徒もいるかもしれませんが・・・笑)
宇宙全土を含む「存在論」として、「諸法」を「色心不二」としているのであって、
「本居の一心としての第一義諦」そして「声字」に象徴される「記号としての世俗諦」、「この2諦の不二」を述べる見解なのです。

ヴェーダンタ密教においては、「本居の一心たる梵我としての第一義諦」は「絶対世界」です。相対世界を超越しています。時間と空間を超越しています。
これが、「龍樹の八不の世界」です。
ヴェーダンタ密教においては、「声字」に象徴される「記号としての世俗諦」は、相対世界に属する事柄です。相対性理論の世界です。時間と空間があり、諸存在があり、太陽があり、月があり、地球があり、膨張して行く宇宙があります。
これらの「相対的な世界」は、みな「世俗諦」という位置づけになります。
しかし、「本居の一心たる梵我としての第一義諦たる絶対世界の八不」の見地からすると、それらは、みな「虚妄なる法」に過ぎません。
この立場を採るとき、龍樹の冒頭に挙げた言葉が凄味を帯びて響いてきます。

「一切の虚妄な法は、諸行(サンスカーラ)である」(中論13・1)

以上、
まあ、ここまで言って、わからなければ、石飛学派は鈍根の人の集まりだ、ということになるだけで、
「タマス気質」の人が集まってしまえば、それはもう、どうしようもありませんから。
仕方のないことだ、と思いますね。

あとは、学術的に、客観性をもった論述で、
「何がトンチンカンなのか」を論証するだけですから。

以上、
石飛女史の「世俗諦」に関する思考のバグの指摘でした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

思考のバグ6

認識論と存在論の相違

(ザポ氏)
無常とは常住ではないということであり、生だけ、滅だけの状態が現象のどこにもないことをいうということである。

(イマジン・ブレイカー)
だから、生起したままの常住があったらどうするのよ、と金塊の事例を出したら、王水をひっかける、とか、ヨードチンキをひっかける、と言い出した。<再度爆笑>
「汝の立脚しているこの地面」はどうよ、と、再度反証を出してザポ氏万事休す。
「この地面」の常ならずの滅を観察することはできない。
「観察する認識」だけを「メイン」に据えるならば、「生だけ、滅だけの現象のどこにもない」の反証は、人間の寿命の間であれば、「個人的にはある」ことになります。

(ザポ氏)
地面なんかは、いくらも変動しているでしょう。
そんなことは、福島じゃ小学生ですらわかることです。
それとも地面が無くならないと無常じゃないといいたいのでしょうか。
地面の表面も地殻も変動しております。
変動とは変動する以前の状態の滅なのですから。
また、目で見て分かる程度の存在認識をブッダがいっているわけないでしょう。
五処には、眼耳鼻舌身意の意があるのだから、観測機械で認識してもいいのですよ。
何を勘違いしてるんでしょうね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上、ここまでがやりとりでしたね。

私が、わざと、挑発的でもないですが、存在論的な見地に立って論を述べているのは、
誰の眼にもわかるでしょうから、大乗仏教徒様なども唯識学的見地から、それを懸念して、「イマジンさん、ちょっと、それはまずいのじゃない」と心配しておられるかな、とも思います。

しかし、「主観と客観の問題」は、西洋哲学では「それこそ西洋哲学に携わる者皆が必死で考え抜いて来たこと」なのですね。
だから、仏教は「唯識的見地」「それが真理」とか言うような言い方は、学術的には、
「良くない」のですね。
しっかり、「客観と主観」の問題として、解決を付けて行かねばならないのです。

「常住問題」しかりです。

地球の「存在」は、人間100年の寿命の間で、「存在の滅」を観察することはできません。しかし、見方は色々できます。
たとえば、古代インドの刹那滅説ならば、時間は流れているから、一瞬過去になるごとに、
地球は全部滅している、そして、その一刹那あとに地球は刹那生起をしている。これを時間の流れの速度で、繰り返している・・・・と。
それから、地球は、公転と自転をして、常に運動をしている。ゆえに、絶対座標軸があったと仮定したとき、固定された場所の位置情報の座標に、地球が一瞬でも留まっていることはない。
これだけでも、常ではない無常だ・・・と。

これは、つまり、「様態の変動性」ということです。

しかし、よく考えて下さい。

「様態が変動する」ためには、「様態が存在しなければならない」のですよ。
「変動する様態たるものが存在しない」のならば、様態の変動も存在しないのです。
あるいは、様態の変動「のようなもの」を幻影で観る「勘違い」ということになるのみです。
この「勘違い」とは、「主観の暴走」と表現してもよい。
石飛女史やザポ氏が、もし何かに勘違いしていれば、それは「主観の暴走」です。
それは,私も同様です。よく知らないザポ氏や石飛女史の頭の中身を推測する行為の中には、「主観の暴走」が部分的に発生することは否めません。

しかし、「主観の暴走」は、何によって「制御されるのか」と言えば、
純粋客観は不可能ですが、「できるだけ客観的な」という視座に基づくのです。

全員が全員、「現象は現象するのみです」として、「主観の暴走の勘違い」を個別にしたら、どうなるでしょうか?

「地球」の「様態は変動」しています。
しかし、「様態を変動させる地球は存在し続けている」からこそ、我々は生きていられるのです。
「様態の変動だけが、何の客観的根拠もなく、単に各人の主観として現象している」という説が、おかしいのは、普通は、「わかる」と思います。
そもそも、「様態が変動している」という観察は、「対象」を観察した結果であって、対象の「存在」を前提にしているのです。

再度、述べましょう。
「トンデモ系統」ではない「マトモな人々」であれば、
「様態の変動だけが、何の客観的根拠もなく、単に各人の主観として現象している」という説が、おかしいのは、普通は、「わかる」と思いますが、どうですか?

「様態の変動だけが、何の客観的根拠もなく、単に各人の主観として現象している」
「それだけだ」
こんな主張では、おかしすぎる、これではまともな哲学にはならない、
そういう判断は、正当ではないでしょうか?

だからこそ、カントは、「現象レベルの様態変化」には、それを支える基盤としての「客観的な根拠」として、「何か」を措定さぜるをえなかったのです。

過去に、o阿闍梨学者は、そうしたカント哲学の態度に対して「ふん、実在論に過ぎん」的な嘲笑する態度の書き込みをしているのを見かけましたが、
浅墓過ぎて、あわれむしかないでしょう。

「様態の変化があるから無常」というのならば、絶対梵我であるブラフマンも無常です。
常に活動していますから、同じ様態ということは、有り得ませんので。

つまり、ザポ氏のような「無常」の「定義」からすれば、
「ブラフマンも存在するけれども、様態は常に変化するので無常です」
ということで、仏教得意の、「ブラフマン否定論」の刃が「折れて」しまいますよ。

さあ、どうするのでしょうか?

そうすると、ここ言い出すのですよ。
いや、「無常というのは、滅するもの、という意味なのだ」と。
そして、「や〜い、ブラフマンは無常だって? それなら、ブラフマンという存在も滅するじゃないか、や〜い」と。

まあ、そうなるしかない、ということです。

まとめましょう。

ザポ氏の「無常」の定義(様態の変化論)ならば、絶対世界のブラフマンも無常でオーケーであって、ブラフマン否定のロジックにはならない、
ということです。
そのロジックの仏法ならば、ブラフマンを認める見解を排除することはできませんね、ということ。

なんとしても無理に排除するロジックで、「無常を存在論にまで拡大」して、「ブラフマンの存在も滅するロジック」に仕立て上げようとするならば、
「地球」という存在も、「存在として滅する」といわねばならず、しかし、「ありのままに見る観察」によっては、その存在の滅を見ることはできません。

ということで、困ってしまうことになるのですね。

つまり、ザポ氏の思考程度では、途中までしか考えずに、論を立てているだけで、
浅墓なだけなのです。

以上、
石飛学派の「無常」についての思考のバグを指摘しました。



以下の指摘について、補足しましょう。

>   
> 「縁起の法それ自体は、生起を保障する理法ではない」
>
> ということが、石飛学派には、認識されていないようです。
>
> 縁によって、滅があり、生起がある。
>       ↓
> 次々に、滅がある、滅がある、滅がある・・・となって、
> その滅において、生起の縁が内包されていた場合には、
> 生起の縁も 次々に滅して行ってしまう。
> すると、「縁起の法」それ自体の理によって、生起がなくなってしまうのです。
>

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今、ここに、室内に置いた水槽があって、金魚を2匹飼っているとしましょう。
この金魚は、オス・メスで、産卵と受精をして、卵が孵化して、水槽が多数の金魚の生起となるケースが「縁起」として考えられます。
他方、メスが産卵する前に、死んでしまったケースを考えてみましょう。
ずくと、「縁起」として、外界から、他の金魚を補充しないかぎりは、もはや、水槽内に、多数の金魚が孵化して生起するということはないことになります。
そうして、残り一匹のオスの金魚を死んでしまうと、この「水槽内という閉鎖系空間」においては、新たなる金魚が生起する「縁」が滅してしまいます。
ゆえに、「新たな金魚の生起の縁がなくなる事態」となって、縁起の法はあるけれども、「新たな金魚の生起は不可能である事態」を招きます。

みなさん、この点、了解でしょうか?

「縁起の法」それ自体の機能によって、生起の縁が消滅してしまうと、「生起不可能」の事態を招いてしまう、ということです。
そういう可能性をもったものが、「縁起の法」なのです。

だとしたならば、「生起不可能」でマズイのならば、「生起不可能を阻止する他の原理」を主張しなければなりません。

「生起不可能でもよい」というのならば、それでもよいですが、
そうした立場は、上座部仏教系統や、石飛学派のような 福島瑞穂症候群的な症状(小乗)に陥った人が、「それでもよい」として、自分たちの「理論の欠陥」を放置する態度でいる、「あとは知らん。あとは野となれ山となれ」的な態度の人なのではないでしょうか?



大乗仏教徒様、素晴らしい引用ありがとうございます。
あちらで解答したものを引用してから、レスしましょう。
・・・・・引用開始・・・・・・・・・・・・・・
(エスエス氏)
> 変動のない、存在しなければならない様態はどこにありますか。
> アナタの頭のなかにしかないのでは?
> メダカが泳いでるのが見えますが、瞬時瞬時変化しつつある現象です。そのほかに、変化しない「メダカの本体」がどこにありますか。

(イマジン・ブレイカー)
私は、「変動する様態」には、様態たらしめる「存在としての基底」が必要だ、と述べたのです。
「存在としての基底」が「変動しない」とは述べていませんので、ご注意ください。
むしろ、ブラフマンは、生き生きと活動していて、様態変動をしている、と述べていることに注目して下さい。

もっと言いましょう。
諸法を「変動する様態」たらしめているその「様態たらしめている存在としての基底」というのは、生き生きとして活動しているブラフマンの「行」(サンスカーラ)である、
ということです。
「ブラフマンのサンスカーラ」が、諸法という「虚妄なる法」を存在たらしめているのです。
・・・・・引用終了・・・・・・・・・・

「いったい法とは何か。 法とは心である。 心は形なくして十方世界を貫き、目の前に生き生きとはたらいている。」
「ところが人びとはこのことを信じきれぬため、〔菩提だの涅槃だのという〕文句を目当てにして、言葉の中に仏法を推し量ろうとする。 天と地の取りちがえだ。」(入矢義高訳注 『臨済録』 岩波文庫P48より)――

この「法としての心」が「自州であり法州」ですね。臨済禅師は、自州と法州の同値換言説ですね。そして、「自州・法州」たる「本居・本地」の「一心」こそが、「法身梵我」です。
すべては、この「一心」から客観世界が生じ、この「一心」から「アラヤ識」そして個体意識が生じ、主観と客観のリーラとなり、「主観の暴走」は「無明」となり、無明が本来の行をねじ曲げて、無明の「悪」行にしてしまい、くだらぬ争いを生むのですね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


思考のバグ7

石飛女史は、「経典に忠実に論を進めれば間違いない」と盲信しているようです。
しかし、キリスト教世界にあっては、「悪魔も聖典を引用する」というのが有名な命題になっています。
つまり、聖典・経典というものは、それ自体、「魔除け」になるものではない、ドラキュラに対するニンニク効果を必ず持っているものではない、ということです。
ゆえに、悪魔は、聖典を引用して、「悪魔の解釈」を作り上げることができるのです。
キリスト教世界において、色々なカルト的な諸派があるのは、そのためです。
また、聖書学者である田川健三氏は、国際キリスト教大学で教鞭をとっていましたが、キリスト教的にいうと、「無神論的な悪魔の解釈」をやったものですから、罷免されました。それを不服とした彼ですが、これは「学術的自由」とは、別個の世界です。

同様に、仏典でも、いくら、仏典を引用して論を立てても、「エゴと魔軍の解釈」というのが成立するのです。
その1つが、「石飛ブッダ論理学」でないという保証が、何かありますか?
もし、宮元啓一教授の「ブッダ成道は、十二支縁起の逆観による」という解釈が「間違っていた場合」には、どうなりますか?
それでも、「魔軍の解釈ではない」と主張できますでしょうか?
たぶん、無理でしょうね。
「石飛ブッダ論理学」は、宮元啓一教授の「ブッダ成道は、十二支縁起の逆観による」という解釈の上に、乗っかって、成立しているものだと思うからです。
「一切智者」の概念定義も、これに依拠していますね。

だから、「一切智者」の中身が「しょぼい」のです。

その定義だと、「ブッダの神通力」は、どこからもたらされるものでしょうか?
それとも、初期仏典におけるブッダの神通力の物語は、全部ウソと切り捨てるのでしょうか?
ブッダの神通力を承認するならば、神通力の「縁起」を指摘して語らねばなりません。

しかし、十二支縁起には、それはありませんね。

漏れているのですか?
漏れているなら、重大すぎる欠陥でしょう。

以上、神通力の縁起と、一切智者のしょぼさと、経典引用主義が絶対ではないこと、について指摘しました。

特に、「経典引用主義なら無謬である」という立場は、それ自体が「トンデモ」である、ということは、強調しておきたいですね。

そして、これを認めて、
「経典をいくら引用しても間違いはある」という立場になるならば、
石飛女史が依拠する「その自信」が揺らいでこなければウソだ、ということになります。

以上、過度の経典依拠主義の誤謬
 という思考のバグについて指摘しました。



ザポ氏の指摘を受けて、対立の構図の名称をもっと適切なものに
変更しましょう。

>
> つまり、因果を超えた「涅槃」を根底とするか、「梵我」を根底とするか?
>
> それ以外の違いはないのです。
>
> これを煎じ詰めれば、
> 「法身空性説」 VS 「法身梵我説」
>
> という図式に集約されます。
> たった、これだけのことです。
>

「法身」という用語が使われるのが、上座部仏教系統の人には、イヤな感じがあるのでしょうね。
それでは、こうしましょう。

「法身空性説」ではなく、「涅槃空性無我説」と。

「涅槃空性無我説」 VS 「法身梵我説」

私の眼からすると、これでは、申し訳ないな、という印象です。
「涅槃空性無我説」というのは、名称からして、
あまりにバカッぽいと思うもんですから。(苦笑)
でも、こういうものが良いらしいので、ご要望に応えて、そうしましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


思考のバグ8

「石飛ブッダ論理学」における「一切智者」と
 ヴェーダンタ密教における「一切智者」には、
天と地ほどの違いがあります。

前者は、十二支縁起の因果関係を見破る智慧に過ぎません。
それを出るものではありません。
「十二支縁起という閉じた体系」だそうです。
何でしょうか? これ。
古代の、十二支縁起に関する「三世両重の説」をも排斥しているのですから、
輪廻転生のシステムを見通す智慧は、入っていないようですね。
このブッダの智慧、しょぼ過ぎます。

一方、
ヴェーダンタ密教における「一切智者」の概念は、それはそれは恐ろしいものです。
「法身梵我という絶対世界の第一義諦の一心」に没入してしまうのです。
つまり、ブラフマンという「神」に溶けてしまうのです。
ブラフマンは「全知全能」です。
ゆえに、これを達成した者における「一切智者」とは、「全知全能者」との「密」の成道者ということになるのです。

この両者の相違は、もう、天と地ですね。
お話になりません。

しょぼ過ぎるブッダの智慧を語る石飛女史の「無明」は、
既に、天まで届いています。
真実がわかったときには、石飛女史は、恥ずかしくて、穴に入らずにいられないでしょう。
でも、入る穴はありません。
「無明のまま暴走すること」の恐ろしさをご自分でよく体験して下さい。

以上、「一切智者」に関する思考のバグの指摘でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

思考のバグ9

>
> なぜかといいますと、ブラフマンというのは形而上学的な原理になるので、ここで、見解が生まれることになります。
> 「見解」というのが、これがやっかいで、これをもたずに何か意味のあることを語るのは至難のわざですし、これをもてば、すなわち、たちまちエゴが出ます。
>
> これは構造上そうなっています。ですから、ブッダは、形而上学説にはかかわらない、という態度をとったのですし、
> 龍樹は、「見解からの出離」ということを、空性として、それをめざしたのです。ブッダも、それを完成させて涅槃に到達しましたね。
>

上記の石飛女史の言葉で、私には、ずっと長い間「?」である「彼女の言葉」の意味が、
やっと理解できました。

(大前提)石飛女史は、「無神論は、絶対的真理だと信じ切っている」
      ↓ ゆえに
「ブラフマンの存在を述べる者」は、形而上的なレベルで、
「本来無いもの」を「有るヨ〜有るヨ〜、ヨホホ〜♪と強弁していること」になるから、
「それは、そういう風に強弁する者のエゴである」

というロジックだったのですね。

なんとも爆笑のギャグ・ですね。
真面目に述べているから、さすがに、浅田美代子級の天然です。
(というと、テルゼさんに、浅田美代子が可哀相だと怒られてしまいますが・・・苦笑)

ザポ氏が「ミスター・ビーン」みたいに右往左往して「なんとか滅してやろう」として
「金塊に王水かける、ヨードチンキかける」とやった「秀逸なギャグ」には 遠く及ばないけれど。(笑)

学問という立場であれば、
形而上的な事柄に関しては、証明不可能なのだから、
有神論と無神論、両方の立場から、均等に、その立場が真理の場合には、
どのように見えるかを、検討して、
そうして、両者の見解を比較対照して行く・・・という客観的視線での作業をすること、
これが「学問」なのです。

彼女は、「無神論・無条件正しい説」の視点でのみ、立論して展開しているので、
もはや、学問ではなく、「無神論仏教神学」の世界になっている。

もしも、学問的な立場として、逆に、
「有神論が真理の場合」であったら、どうなるのか、検討してみたら?
「ブラフマンが有る」というのが、エゴがあるものになるのか?
彼女の同じ論理をこちらに適用すれば、
この場合、「無神論という真理ではない虚妄の見解」を強弁すれば、それは「見解」になって、
エゴが生じる・・・・
という、同じ結論が出て来る。

これは、論理の構造上、そうなっていますから・・・口真似ですよ〜。(笑) 

そんなことも、わからない、彼女は。
自分にも返ってくる「ブーメラン論法」が、「大丈夫、自分には返ってこない」と思い込んでいるようなフシが窺える、というハトポッポ的な思考パターン。

これは、彼女の論理主張と展開における「欠陥」「稚拙な点」と言えましょう。

ヴェーダンタ密教において、意識が、ブラフマンに到達するとき、

> 龍樹は、「見解からの出離」ということを、空性として、それをめざしたのです。ブッダも、それを完成させて涅槃に到達しましたね。
>

ということは、そのまま、当てはまることなのです。

全く、どこまで、鈍いのだか。

以上、思考のバグ9でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

思考のバグ10

>
> アドヴァイタ的な悟りとそうでない仏教的な方向とは、自然と区別されてきます。
> 今、この掲示板でも、それが見えてきましたね。
> たーぼーさまやT,Tさまは、アドヴァイタ的な悟りですね。
> わたしはお二人とお話ししましたから、すぐに気がつきましたが、書いてあることから見出そうとすれば、たーぼーさまのNo.19365あたりで見当がついてくるでしょう。
>


まだ、石飛女史は「自分に正義がある」という自信を保っていますね。
しかし、石飛女史は「宗教的には」「やってはいけないことをやってしまった」のです。

「やってはいけないこと」とは、「知っても(体験しても)いないことを経典を読んだだけで、さもその内容を知っているような<知ったかぶりの思い>を生起させ、しかもそれは知ったかぶりなので、見事に<転倒した解釈>をしてしまい、そのまま園児たちに自分の理解した転倒した解釈を教え始めた」という形で、
「盲人が盲人の手引きをする」ということをやってしまった、ということです。

それも、上座部仏教の範囲内での転倒解釈であれば、スマ長老もやっていることですし、私も大目に見ます。しかし、勢い余って「龍樹」にまで手を出して、その解釈を龍樹に適用しようとし出した。ゆえに、大乗八宗の祖たる「真の龍樹像」は著しく歪められ、矮小化され、折角の「大乗相応の地たる日本」の文化にまで、悪影響を及ぼしかねない。
ゆえに、真の龍樹像を知る私が、8年前から警告し続けたわけですね。
ウソは罪である、過失の詐欺罪、宗教的薬事法違反・・・謙虚に自己を反省すべし、と。
しかし、警告は完全無視された、という経緯です。

さて、今回の「思考のバグの指摘」は、体験に関わることです。
たーぼー様が登場し、T、T氏がおられ、体験の重要性を述べています。
しかし、石飛女史は、たーぼー様に対して、体験だけしかなく、それを論理で語れないなら、そんな体験は「無いも同じ」みたいな言い方で、挑発し、できるもんなら、論理でブッダみたく語ってみ?・・みたいな言い方をしています。それができないなら、低い体験なんじゃないですか、みたいな言い方にも取れますしね。

学術的好奇心から相手を煽るのはデータ収集上の戦略かもしれませんが、体験者の体験を軽視するその態度は、「宗教的には」「やってはいけないこと」の1つです。
もしも、短いマントラ行で100万回唱える祈祷行をしている人がいたとします。
その人に、マントラの短い言葉だけかい? 論理でそれを語ってみ? とやったら、このおばさん何だ? とならないでしょうか?  彼女の態度は、それと殆ど変わらない類のものだ、と評価できます。
もしも、「説法すること皆無」の「沈黙の聖者」がいた場合、その聖者は、役立たずでしょうか?
石飛「ロジック」からすれば、菩薩行もしない役立たず、と評価されかねませんね。
推測のようにほんとに「役立たず」と彼女が評価するかは、聞いてみなきゃわかりませんが(勿論否定するでしょうが)、(しかし、たーぼー様への煽りは、その線の延長と言えます)
論理で語れない人であっても、「宗教的には」「内的に」眼に見えない多大な働きをしていることだって多々あるのです。
説法とロジックがこの世で一番大事?
そんなことは全くないのです。

さて、今回指摘するのは、「空だから悟る」のか? 「悟るから空と知る」のか? どちらの順番が正しいのか? という点です。
体験者は、これに「即答」できます。
(無論、「空を悟るのだ」と「空と悟り」の相依性を言い出すヤカラもいるであろうことは承知していますが、それは置いておきます)

比喩を出しましょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
野球のピッチングをやったことがない女性がいて、古本屋で、「インド式ピッチングバイブル」という何百年前の古い本、作者不詳の本を入手して読み始めました。
そこには、ピッチングは、「手を先に出してそれから足を出す」これが基本中の基本。これを守れば大投手も夢ではない、と書かれていました。この女性は、幼稚園を経営する園長先生だったので、この本を熟読して、うん、わかった、うちの園児たちに教えてあげよう、そうすれば、大物野球選手が育つかも・・と期待に胸を膨らませて、幼稚園に行き、園児たちに、それを教え始めました。
しかし、園児たちが、幼稚園の庭で、そのようにいくらやっても、全然うまく行きません。
それをたまたま通り掛かった甲子園を目指す高校球児が見つけて、「おばさん、何を教えているんですか! バカも休み休みにして下さい。なんてこと教えるンですか!」
文句を言いに、幼稚園の柵を乗り越えようとしました。すると、用務員のおじさんが飛んできて、「何をするんだ、君のやっていることは、犯罪だよ、とっとと向こうに行きなさい」
こうして、高校球児と用務員さんは、口論になりました。

「子供のときの最初が一番大切なんですよ、悪いクセをつけると、一生、それで苦労することになるんです、時間と労力を無駄にするのです、用務員さん、わかりますか」
「園長センセは、ちゃんとした本を購入なさって、その通りに教えておられるのだ、君が口だすことではない」
「ちゃんとした本? なんですか、それ? その本に、なんと書いてあるのですか」
「ピッチングは、<手を先に出してそれから足を出す>これが基本中の基本、とちゃんと書いてある、間違いない。だから、君が間違っているのだ」

これを聞いた高校球児は、あぜんとするばかりでした。
ピッチングを「やったことがある者」(体験者)にとって、
<前足をのばして地面につけてから、腕を後から振る>というのは、
誰であっても、「体験的常識」であったからです。
・・・・・・・・ 比喩おわり ・・・・・・・・・・・・

この比喩における滑稽さと、石飛女史の滑稽さには、大した相違はありません。
「空だから悟る」のか?
「悟るから空と知る」のか?
体験者は、これに「即答」できます。
しかし、未体験者は、仏典は、「十二支縁起の逆観によって成道」と読めるから、
「空だから悟るのだ、空性を一つ一つ知って行き、そうして最後に悟るのだ」と人々に教えます。

しかし、体験者は、それが、「転倒した正反対のロジック」であって、
誰かが、「ピッチングは手を先に出してから足をだす」と教えているなら、なんてバカなことをしているのか・・・・と、
「見た瞬間の即断で」「未体験者のインチキ言説の本末転倒ぶり」を「見抜くこと」ができるのです。

以上、
未体験のまま、知ったかぶりで、「ロジックを組み立てる」と、実際のメカニックを無視することになり、トンデモになる、ということ。
こうした思考のバグについて、指摘しました。

ゆえに、未体験の盲人状態で、盲人を手引きする、石飛女史の転倒言説に、
「宗教的見地から」の「正しさ(正当性)」は存在しないので、「石飛女史の自信」は「虚妄な慢心」でしかありません。
そろそろ、灰をかぶって、慙愧の念で悔いるべき「とき」
「謙虚になるべきとき」が、近づいています。

「真の龍樹論法」で斬られた後は、そのトラウマで一生立ち直れないかもしれませんが、
それは、仕方がないことでしょう。
それだけの悲惨な結果になるよ、と、警告は、あまりに十分なほど与えました。
私は、この掲示板にて、大馬鹿で大犯罪者で人非人、という汚名を着た「道化師の敗残者」になり下がりながら、それを甘受しつつ、十二分に
「あなたのため」に 警告をしました。

あなたが今後、たとえ、一生立ち上がれなくなった、としても、私は、それに同情することはしない、そういう段階に達してしまった、ということです。

一度、ドブに落ちてしまうと、世間というのは非情で、さらに追い打ちをかけるように、襲いかかってくるものです。
「ブッダ論理学批判」という「論理的哲学的考察と思考のバグの指摘」は、石飛女史が生きている間中、多くの人々によって続けられることでしょう。

でも、それは、「学者」としては、仕方がないことです。
「学問」というのは、かくも非情で、「厳しい世界」なのですから。
遊びやオママゴトではないのですから。



「宗教」としても同様です。
宗教は、そんなに甘いものではありません。
厳しい禅家の禅師であれば、石飛女史を叱ってはりたおすぐらいはしたかもしれませんが、
私は、そういうことはしませんが、ある意味、もっと厳しいかもしれません。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

思考のバグ11

「不生不滅」と「ヴェーダンタ密教」と「龍樹」について

龍樹の「中論」から
・・・引用開始・・・・・・・・・・・・
汝は一切の世俗活動を破壊する。汝は縁起の空であることを破壊する。(24−36)
空である道理を破壊する者にとっては、為すべきことは何も無いことになるであろう。
為すはたらきは起こされないであろう。そうして、行為主体は何も為さないでいること
になるであろう。(24−37)
自性として種々なる状態を欠いている世間は(世間は空である)、不生不滅で、また常住なるものとなるであろうか。(24−38)
・・・・・引用終了・・・・・・・・・・・・・・・

龍樹の論は、明確です。
縁起する世界の「世間」が、不生不滅で常住だったら、おかしいだろ? 
ということです。

もしも、「世間」が、不生不滅で常住だったら、どうなる?
それは最初の句に述べていることですね。
「汝は一切の世俗活動を破壊する。汝は縁起の空であることを破壊する。(24−36)
空である道理を破壊する者にとっては、為すべきことは何も無いことになるであろう。
為すはたらきは起こされないであろう。そうして、行為主体は何も為さないでいること
になるであろう。(24−37)」

だから、世間は、不生不滅ではない、縁起世界だ、というのです。
これが、龍樹の見解です。
宜しいですね?

ところで、アドヴァイタ・ヴェーダンタ密教では、どうなのでしょうか?
これに矛盾するのでしょうか?
 いいえ。断じて矛盾しません。
「不生不滅」をアドヴァイタ的な意味に限定して、「常住」「但し、様態は変化する、「如来の常住」概念と同様の「様態は無常だが法身梵我の存在の常住」の意味にします。

龍樹も、ここでは「不生不滅」をアドヴァイタ的な「常住」の意味で、使っているように読めますね。

さて、知っていましたか?
アドヴァイタ・ヴェーダンタ密教においても、
「世間は、縁起世界だ」とするのですよ。
なぜ?
世間それ自体を不生不滅だとしてしまったら、因果がなくなり、超越されてしまうし、人々の行為も結果もなくなってしまうからです。
しかし、観察すれば、世間には、因果があります。
ゆえに、世間は、縁起する因果世界です。・・・(1)
しかし、ヴェーダンタでは、不生不滅「をも」認めます。・・(2)

このときの「不生不滅」は、(1)を破壊するような(1)と同次元のものではありません。
(1)とは、異次元のもの(形而上的なレベル)として、(2)の不生不滅を認めるのです。
つまり
(1)と(2)の「両辺」を認めるのですよ。

「マーヤー(虚仮・虚妄なる法)としての世間」という一辺。これが分子。・・(1)
「因果を超えた涅槃としての如来常住・法身梵我という不生不滅」という一辺。これが分母です。・・(2)
このような分子と分母で表記される(数学ではなく視覚的イメージです)ような
「上下の2辺」両方を認めるとき、
「今、ここ」は、そうした上下2辺の「中」となるのです。

更に言えば、分子であるマーヤーそれ自体単独では、成立しないので、
マーヤーという「縁起」は、それ自体「世間」として、
「今・ここ・そこ」に観察されるのならば、
それは、わざわざ分母の存在のことを述べなくても、
「世間に認められる縁起」という分子は、(当然に分母を含んだ)「中」に他ならない、
ということです。
「分母なくして分子なし」という因果関係を認めるのです。

だから、ヴェーダンタ密教からすれば、
■■■・・「縁起」というのは、なんでも全部「中」なのです。・・・■■■
十二支縁起であっても「中」なのです。


さあ、石飛女史は、困りましたね。
「上座部的な部派仏教」側からの「浅はかで中途半端な空観」の立場からは、
この見解に対してどのように反論するのでしょうか?

龍樹いわく
「不完全に見られた空性は智慧の鈍い者を害する。あたかも不完全に捕らえられた蛇、
あるいは未完成の呪術の如くである。(24−11)」

まさに、この龍樹の言葉は、
「上座部的な部派仏教」側からの「浅はかで中途半端な空観」の立場
つまり、石飛女史の立場に、
該当する言葉だと言えるでしょう。


なお、ついでに、o阿闍梨が、仏教の無我説によって、ヴェーダンタ密教を否定していますが、浅墓すぎです。

「五蘊」についても、ヴェーダンタ密教では、
分子部分・・・・・五蘊(相対的な縁起の世界)・・世俗諦
分母部分・・・・・不生不滅(まるっきり異次元の絶対世界)・・勝義諦
とします。
ヴェーダンタ密教においては、
人=「五蘊/(有為ではない!)不生不滅」
という集合体なのであり、五蘊は無我であり五蘊全部が「空性」なのです。
で、「人」という存在は、「中」なのです。

なお、o学者が誤解しているような
不生不滅は、五蘊の属性 なのではありません。その点は、誤解なきように。
不生不滅は、有為でも有限でも無限でもありません。その点も誤解なきように。
ヴェーダンタ密教においては、不生不滅は、五蘊ではありません。
なぜなら、不生不滅において、「五蘊は無い」からです。
五蘊を「有る」と思って、中身を色々と調べても、それは、蜃気楼を掴もうとしているようなものだ、と述べるのが、ヴェーダンタ密教なのです。

さあ、o学者、困りましたね。
ブッダのロジックのどこで、上記で紹介したヴェーダンタ密教の見解を否定している、というのでしょうか。
無理やり、我田引水の見解(煩悩解釈・満開の態度)で仏典を読んだときにだけ、
仏典はヴェーダンタ密教を否定している、と読めるだけで、それは、読む者の、邪心の反映、戯論の構築にすぎません。
本来の、ブッダの「非我論」においては、ヴェーダンタ密教の「不生不滅」を否定するロジックは存在していません。

以上、
「不生不滅の法身梵我」に立脚するヴェーダンタ密教を
「否定するロジック」は仏教には、本来「無い」のに、
「否定ずくロジック」が「有る」と思いこんでいる「転倒」と「無明」
という思考のバグについて、指摘しました。

思考のバグ11補足

おそらく、o学者がこのページを執筆しているのでしょう。
ブッダ・ウィキ 五蘊以外のアートマンも認めない
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/31.html
まさに、o157仏法が炸裂しています。

・・・・・・・・引用開始・・・・・・・・・・・・・・
色一切は「それは私のものではない」「それは私ではない」「それは私の本質ではない」と、このようにあるがままに正しい般若で見るべきです。
ビクらよ! このように教えを聞いた聖なる声聞は、この五取蘊は私ではない、私のものではないと見ます。そして彼はそのように見たから、
世間の何にも取ることがありません。取ることがないから、煩らい悩みません。煩らい悩まないから、全く精神が鎮まり(涅槃し)ます。
・・・・・・・引用終了・・・・・・・・・・・・・・・・

ロジック的な致命的な誤りは、後日の指摘としますが、
一点、 誰でも明確にわかる点を指摘しておきましょう。
「色一切」は、「それは・・でない」「それは・・・でない」「それは・・・でない」
という否定をブッダが使用した、という主張です。
この主張を肯定して、これに乗ったとします。

このとき、「それは」という「主語」として取り扱えるのは、
「認識できる対象」ということになります。
「認識できる一切世界」を「一切」という、という仏典に沿ったo学者・石飛女史の主張もありますし。

では、この定義の範囲における「それは」に、
ヴェーダンタ密教における「虚空梵我」が入りますか?
と問います。
正解を述べると、
「虚空梵我」は凡人には決して認識できないので、「それは」という主語として取り上げて「否定の対象として扱うことができない」のです。

それが、「真のブッダ論理」なのです。
ブッダも実はそれを、念頭において、説法しているのです。

まあ、o学者のレベルでは、そんなことすらも、わからない、ということです。

とても、プロとは言えませんね。
給料泥棒ではないか、という批判も起きるところでしょう。それは、丁度、お坊さんが、葬式で、読経をして、短時間で数万円をもらう「坊主丸儲け」と批判されるのと同様のライン上の事象ではないか、とも感じてしまいますね。

不生不滅の
は、いかなる意味でも「色(ルーパ)」ではありません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


思考のバグ12

ツリーの思考のバグ1〜11の投稿場所と、異なる所にミスして投稿してしまったので、
見やすくするために、正しい場所に、再投稿しておきます。
・・・・・以下、思考のバグ12 再投稿・・・・・・・・・・・・・

もし、「龍樹思想」の根幹となるものを たった1句だけ挙げて・・と言われたら、
私は、次の一句を挙げます。

龍樹の言葉・・・・・・・・・
「あなたは馬に乗っていながら、しかも、馬を忘れているのである。」(中論24・15)

今回は、この解釈をめぐる「転倒」について指摘します。

石飛女史は、経典・論書に、静かに正座して固まって向き合えば、瞑想状態で、正解がわかるみたいな言い方をなさっていますが、はっきり申し上げて、それは瞑想ではありません。瞑想は、パズルのゲーム解きとは違うからです。
「煩悩解釈・満開」になるような読み方をしたら、仏典も論書も可哀相ですし、そんな態度で読んでくる読者に対して、その煩悩をゼロにする力など、仏典にも論書にもないからです。
だから、私は、石飛女史をこう呼びます。
「煩悩解釈満開学者」と。頭の中は、名利のお花畑で一杯。
ニヤーヤ学派研究から仏教研究に転じた
三法に帰依もしていないニセ仏教徒による、仏教のニヤーヤ学派的解釈。
それによって出来た「石飛ブッダ論理学」。上座部仏教的なスタンスのまま(つまり小乗を捨てずに)(大乗の)「龍樹の空」を語ろうとする、この矛盾と愚行。
だから、「盲人が盲人の手引きをする罪が積み重なっているのだ」と。

では、「馬を忘れている」という龍樹の言葉の検討に入りましょう。

・・・・・引用開始・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ザポ氏)
心が世界をつくるなら、暴走する車の中に飛び込めとか、心が世界をつくっているなら、脳味噌をぐちゃぐちゃにしても心は無事かとか。
そんな認識論など仏教にはない。
そう主張する者は、まるで、仏教の五識による認識を理解できていない。
仏教は存在を否定しているのではなく、実在を否定しているのだということが。
存在は、「生じる性質のものは滅する性質のもである。」という生滅のあるものである。
生だけ、滅だけのものは無時間の観念論・あるいは概念操作の世界だけにしかないことを理解しているはずなのに、忘れているようなものだ。
馬上にいながら、馬をさがしているようなものとは、このことだ。
(エスエス氏)
どうしたら馬はみつかるだろうか?
(ザポ氏)
今を注意深く、観察して、気づきを待つしかありません。。。
・・・・・引用終了・・・・・・・・・・・・・

正直、三法に帰依もしていないザポ氏が法を説くのは、論外です。
こうした「無法で盲目な説法者」を生み出す「縁起」は「石飛ブッダ論理学」の悪弊でしょう。
さて、上記のザポ氏の表現だと、「本来虚妄であるもの」を「実在」と勘違いして「もともと虚妄である事実」を忘れている、という主張です。
つまり、「もともと虚妄の法であるという事実真相」が「馬」であり、
「虚妄である事実という馬」に乗っているのを忘れて、どこかに馬はいないかと、探しているようなものだ、という主張です。

そして、この解釈は、石飛女史からの直伝です。
彼女の本「ブッダと龍樹の論理学」201ページ
・・・・・引用開始・・・・・・・・・
「わたしたちは、縁起と空性の中で生きて活動しているのである。空性の中で生活していることを知らずに、空性を批判する人に対して、龍樹は、「あなたは馬に乗っていながら馬を忘れている」と述べたのである。(中論24・15)
・・・・・引用終了・・・・・・・・・・

再度、ザポ氏の解説を読み解くと、
「もともと虚妄の法であるという事実真相」=「馬」
「虚妄である事実という馬」に乗っているのを忘れて、
どこかに馬はいないか?と、探しているようなものだ、という主張です。

最後の部分、「どこかに馬がいないか、と探しているようなもの」というのが、変ですね。
「こじつけ感が一杯」ですね。煩悩解釈っぽいですね。
これが、煩悩解釈で転倒解釈であることを、これから、述べます。

「どこかに馬はいないか、探している」だって?
龍樹が、そのように述べていますか?
いいえ、全く述べていませんね。

再度、指摘・強調します。
龍樹は、「馬に乗っていることを忘れているようなもの」とは述べますが、馬を探している、とは全く述べておりません。

文脈を辿って、龍樹の論旨の前後の流れを見てみましょう。
龍樹によって「空」が説かれたときに、反論者が、
「空」などと言って「何もない」ものだったら、チョー困るではないか、
だって、こんなことになっちゃうではないか↓ と言っています。

・・・・以下 中論から引用・・・・・・・・・・・・・
もし一切が空であるならば、生も滅も存在しない。四諦[ 四つの真理(satya) ]の無い
ことが汝に附随して起こる。(24−1)
四諦が存在しないから知(苦を熟知すること)・断(煩悩を断じること)・修(道を修習す ること)・証(涅槃を得ること)は有り得ない。(24−2)
それ(知・断・修・証)が無いが故に、四聖果(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)は存在しない。果が無いが故に位(果に住する者)も無く、向(果に向かう者)も無い。
(24−3)
もし、それらの八賢聖(四向四果の聖者)が存在しないならば、僧伽は存在しない。
また四諦が存在しないから、正法(正しい教)もまた存在しない。(24−4)
法と僧伽とが存在しないが故に、どうして仏が有り得ようか。このように説くならば、汝
は三宝を破壊する。(24−5)
空は果報の実有、福・罪及び世俗の一切の慣用法をも破壊する。(24−6)
・・・・・・・・引用終了・・・・・・・・・・・・・・・・・
と、このように反論して来たのに対して、
龍樹は、次のように答えるのです。

世俗諦と第一義諦の2諦があるんだよ、と。(この部分の引用は省略)

この「2諦」を「不完全に観る」ような、「どっちか片方だけに」
偏って見ると、「害になる」んだよ、と。

・・・以下引用開始・・・・・・・・・・・・・
不完全に見られた空性は智慧の鈍い者を害する。あたかも不完全に捕らえられた蛇、
あるいは未完成の呪術の如くである。(24−11)
それ故に、その法が鈍い者どもによってよく理解されないことを考えて、聖者が教えを
説示しようとする心は止んだ。(24−12)
・・・・引用終了・・・・・・・・・・・・・・・

ですから、上で述べたように、「2諦を均等」に、観察しなければならないのです。
そのとき、どうなるか?
龍樹はこう述べます。

・・・・・・引用開始・・・・・・・・・・・・・・・・・・
また汝が空性を非難しても、我々には欠点の附随して起こることが無い。
空においては欠点が成立し得ない。(24−13)
・・・・・・引用終了・・・・・・・・・・・・・・・・

どういうことでしょうか?
ヴェーダンタ密教からは、明々白々です。
欠点が皆無というのは、「完璧」ということです。
完璧なのは、御一方のみ。「不生不滅の虚空」ですね。これが第一義諦です。
これは、「第一義諦」としての「法身梵我」です。

ヴェーダンタ密教においては、
「世俗諦」としての「縁起」は、「空<性>(無自性)」です。
「世俗諦」は、第一義諦の「虚空法身」とは、明確に区別されます。
ヴェーダンタ密教においては、
第一義諦の「虚空法身」は、「因果を超越」した「最高最尊最貴」の「不生不滅の仏心」です。
そして、世俗諦は、因果の世界での縁起現象というマーヤー(虚仮)ですから、空性です。

さて、龍樹はこのあとで、何と述べるでしょうか?

反論者が、「空」だと言って何にもないことなら、困るだろうが、と主張しているのに対して、
龍樹が反論しているのですが、、龍樹の反論の仕方は、
反論者の主張の主旨が、
「四諦・四聖果(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)・八賢聖(四向四果の聖者)・僧伽
四諦・正法・仏・三宝・果報の実有、福・罪及び世俗の一切の慣用法」
これらを破壊することになっちゃうじゃないか、ということに対して、

「いや、破壊しない」と答えることにあります。

どういう論法で、「破壊しない」と答えたのでしょうか?
それは、
「中」だから、という理由を出して、龍樹は解答をしているのです。

「仏法が破壊されない」理由としての「中」・・
それを表す言葉が、このあとの句になります。

・・・・・・引用開始・・・・・・・・・・・・・・・・・・
空性が適合するものに対しては、あらゆるものが適合する。
空が適合しないものに対しては、あらゆるものが適合しない。(24−14)
・・・・・・引用終了・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

つまり、縁起(虚仮)には「空性」が適合する。これは、「縁起の世俗諦」は「虚妄の法」であるから、空性は、縁起世界の全部に適合する。
しかし、2諦の分母分子で「世間全体(全部の目方)」を観るならば、空性の縁起世間(世俗諦)だけでは片手落ちである。だから、第一義諦の「不生不滅」という見地でも「世間」を見なければならない。
そうすると、第一義諦の「不生不滅」に視点を絞って観る見地では、空性は、適合しない。これは、「世間」という世界の、あらゆるもの一切を見ても、この見地で見れば、「空性」は適合しないのである、と。

これぞ、まさに、ヴェーダンタ密教における「中」です。

さて、そうして、いよいよ、決定的な1句に到達します。
・・・・・・・引用開始・・・・・・・・・・・・・・・・・
故に、汝は自分の持っている諸々の欠点を、我々に向かって投げつけるのである。
汝は馬に乗っていながら、しかも馬を忘れているのである。(24−15)
・・・・・・・引用終了・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この真意を敷衍して翻訳しましょう。

「汝は、<空>について、「何もないじゃないか。何もないなら、四諦やその他、僧団や正法や仏や色々な素晴らしい仏法の果実が無になってしまうじゃないですか」と、このように、龍樹である私とその一派に文句を言うけれども、その批判は、見当違いである。
汝は、馬に乗っているではないか。「馬」とは、「不生不滅の第一義諦の虚空法身」である。この「生き生きとしてハタラク空」に乗っているからこそ、汝は、そのような色々な批判や文句を述べることができるのだ。この「空」という「生きた馬」に乗っているからこそ、五蘊を空性と照見することもできるのだ。なぜなら、汝のすべての認識作用・識別作用・行(サンスカーラ)は、「生きた馬」の働き(活動性)に依るからだ。そして、この「生きた馬」である「空」という「第一義諦」は、欠点というものが皆無の完璧なものなのだよ。だから、欠点のない完璧なるものを、汝は批判することができない。
良いか? 「世俗諦のみの空性を観る」という「不完全な空観」は、汝を害するから、そのような偏った立場を採ってはならない。そうではなく、「第一義諦の不生不滅の空」という「馬に乗っていること」を、ユメユメ忘れるでない。常に、2諦を同時に不二のものとして空を観ぜよ。これは単なる観法として仮設された妄想ではない。これこそが、「今・ここ」の、ありのままの事実・真実・真相なのだ。
だから、馬に乗っていることを忘れることなく、「人馬一体=人馬不二=色心不二=輪廻と涅槃の不二」としての「中」という、ありのままの真理を観ぜよ。」

(このあとの句で、龍樹は、縁起の世間で空性に適合しないものを観るならば、法が破壊されることを述べて、どちらか一方のみの論理では、法は破壊されるのであって、2諦は空性に適合するものと、適合しないもの、「こうした相反するもの」であらねばならず、その上で、その「中」の有り様が「今ここ」なのだ、ということを再度、強調しています。)

以上です。

結論を述べましょう。

「虚妄な法」が「生きた馬」なのでは、断じてありません。
「虚妄な法」は、「生きた馬」の上の、せいぜい「馬の鞍」に過ぎません。勿論、馬の上に乗る「五蘊」も虚妄な法に過ぎません。

「不生不滅の第一義諦」は、「生きた」馬です。死んだ馬ではありません。
その「生きた馬」を、勘違いの転倒によって
「変転する縁起」としての「世俗諦たる虚妄な法」を意味するのだと解釈する
石飛女史は、実に実に、「転倒した解釈」をしているです。
「無明の極み」です。
これでは、到底、他者に、龍樹を教えるレベルではありません。
ですから、
石飛女史の学説は、「煩悩解釈・満開学者」の名にふさわしい、と思います。

なお、上座部仏教の解釈で無理に押し通すと、「縁起の法それ自体は次の生起を保障しない」ために、そして、「滅」は通常、次の生起の因を含むので、全滅世界・死滅世界に一直線です。ですから、龍樹の句の解釈として、「生きた馬」を「生き生きとした空性の縁起世界」として思い描くことこそ、インチキで、論拠なし、ということになります。
これは、前に「水槽と金魚の事例」で説明した通りです。
石飛学派が、「なぜ生じるかわからないのだけれど、生じるものは滅するものである」と我々は説く。
このように、自分に都合の悪い部分を隠すことなく、
必ず、「なぜ生じるかわからないのだけれど」という「真実を語る枕詞」をつけてから、仏法を語るのならば、まだマシなのですが・・・・。
こうした「知らないこと」の断り書きを付けないことは、たばこ販売に際して、健康被害の文言を入れないような、悪質性となります。
まあ、しかし、このように都合の悪い真実の枕詞を入れて布教するならば、バカにされて、布教活動をしても成功しないと思いますが。

以上、石飛女史とザポ氏の思考のバグについて、指摘しました。

龍樹の「馬」の比喩について、これ以外の解釈は有り得ません。
他の解釈は、全部こじつけになるしかないでしょう。
石飛女史のように、「生きた馬=空性である虚妄な縁起の法」とやってしまうと、
2諦全部を「空性」で統一することになり、
こんな解釈をしているようでは、法は破壊される、というのが龍樹の立場です。
龍樹のような聡明な知能指数なら、そのことがすぐに論理的に見通せるのです。
それがわからない人は、論理的には、お世辞にも聡明とはいえません。

2諦は、「空性に適合するものと、空性に適合しないもの」という正反対の真理が不二となっているものであるときのみ、
法は破壊されず、因果は破壊されず、縁起しながら、涅槃も可能となるのです。
これしか正解はありません。

石飛女史の浅墓な「煩悩満開」解釈だと、<哲学としても> 薄っぺらくて、お笑いぐさであることは、哲学のプロならすぐわかることですし、
なおかつ、龍樹の文章の読解としても、前後の文脈の読解としては、全く筋が通らないので、<国語力としても>「この人、論理的な国語能力なし」
と判断されることは、明白でしょう。

石飛女史よ、もうカンネンするときが、近づいています。
但し、「そのとき」には、あなたの自信の淵源でもあるスマ長老も、
一緒に、私が斬ることになるので、寂しくはないでしょう。
スマ長老に、しがみつきながら、「ブッダ論理学」終焉の笛を聞き、
それが逝くのを見届けることになります。
そして、
石飛女史の「中論」の注釈は、当然、頓挫となります。

私としては、「中論」の「石飛注釈本」が出版されてからの「引導」でも良いと思っていました。
その方が、打撃が大きいですからね。
バベルの搭は、最高の高さに達したときに、天の雷で破壊されるのがよいのでは、
と思うところもあったからです。
しかし、「引導」は、その前になりそうです。
そして、それは、ブッダと龍樹からのプレゼントだと思うべきです。
「これ以上の、恥と罪を犯させないため」ということでしょう。
何という龍樹の、そして観自在菩薩の大慈悲であることでしょうか。


四馬の比喩
http://www3.ocn.ne.jp/~zuiun/133shouji.html

によって、ご自分の身の振り方をよくお考え下さい。

///////////////////////// 


思考のバグ13

私としては、「思考のバグ11と12」で、普通なら、「致命傷」だと見ています。
龍樹の言葉「馬を忘れている」の解釈について、前後の文脈から、私の提示したヴェーダンタ密教からの解釈よりも、これを上回る「自然で筋が通る」解釈を 石飛女史は提示しなければなりませんが、それは、無理でしょう。

つまり、「四馬の比喩」でいえば、感度の鋭い馬ならば、この時点で、自分の間違いに気付くところでしょう。それなのに、「私は正しい、私は正しい・・・」と押し通そうとするならば、「それ自体がワガママ」であり、ご自分が「最も鈍い馬」に該当してしまうことを証明して行くことになってしまいます。
ですから、あまり、依怙地にならないことをお勧めします。それは逆効果なだけです。

しかし、思考のバグ12を指摘されても、それを無視して、石飛女史はこんなことを述べています。

>
>空性は、アドヴァイタの体験とはちがいます。「気分」は必要がないのです。
> まるきり、ちがいます。詳しい話は、今は、時機ではないようなのでおいおいと。
> >  
> >  万人にとって<輪廻即涅槃>でしょうからね。違いますか?
>
> ちがいます。
> 世間をどのようにみればよいのかとたずねたモーガラージャに、ブッダは、こう答えます。
>
> 「空なるものが世間である」とみなさい。自己という見解をとりさって、このようであれば、死を乗り越えるだろう。このように世間を見ているものを死王はみないのである。
>
> ふつうの人は、このように見ないから、気づいた時には、死王がせまってくるのです。



物分かりが悪過ぎるので、「上記の言葉」に関するヴェーダンタ密教からの解釈を述べておきましょう。
「空なるものが世間である」と観るということは、世間を空性とみて、更に世間を透明無化なる無として観ることです。ヴェーダンタ密教からは、世間はマーヤー、<虚妄>の法なのですから。そうすると、何が残るでしょうか?
「虚空梵我」だけが残ります。あまりに簡単過ぎる「引き算」ですね。
「虚空梵我」は、永遠の生命であり、不死の甘露の大海です。この虚空大海には、死王が棲息できる余地は、皆無です。だから、ブッダは「死王を見ない」と言うのです。
「虚空梵我」だけが残るときに、「<修行者の>自己の見解」は皆無です。虚空梵我は、「彼」だからです。そして、「彼岸」に到達したとき、「彼が私である」となりますが、こうした「彼岸」においては、世間が消えるのと同様に、修行者も消えてしまっているのですから、どこにも、修行者「の」(所有を表す、の)「自己」は、存在しません。
「消えてしまう修行者の自己」ということになります。

加えて、「ブッダの否定のロジック」に、「虚空梵我」を否定するロジックはないことは、既に指摘した通りです。

石飛女史よ、
「自己の見解」に固執して、依怙地になればなるほど、逆効果で、惨めになるだけあることを、ご忠告申し上げます。
スマ長老は、やばくなると、ヒステリーになりますが、石飛女史も、ヒステリーを起こす危険性があることを指摘しておきます。そうした「心理」に自覚的であれば、回避の方法もあるというのが、精神分析学です。老婆心ながら。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、「転倒」に関しての指摘が続いていますが、
今回指摘する思考のバグは、「石飛ブッダ論理学」には、「悔い改め・回心」の概念がない、という「転倒」についで指摘します。

そもそも、デフォルトとしての「転倒」を無視している「転倒無視学者」であるため、「十二支縁起の逆観で悟れる」という「虚妄の論理」を盲信してしまうのです。
つまり、何が転倒なのか? 「転倒」の真義と本質が、全く理解できていないのです。

一つの事例を出しましょう。金賢姫は、大韓航空機爆破事件の犯人として逮捕されました。115名が死亡しているテロ事件でした。彼女は、北朝鮮の洗脳教育によって自分の行為を正当化していましたが、やがて洗脳が解けることになり、115名を殺害した大罪の重さに苦しむことになります。
もし、このとき、大罪の重さに苦しみ自殺したいほどの苦悩を背負った彼女が、石飛女史のもとに訪れたとしましょう。「ブッダ論理学」を通しての「ブッダの教え」に救いを求めたとします。
石飛女史は何と述べるでしょうか?
金賢姫と話をしたあと、得意のセリフ、「あなたの〜が見えて来ましたね」とか言うのでしょうか?
それとも、「十二支縁起の逆観」を教えるでしょうか?
ぜひ、この設定で、石飛女史がどのような「道」を語るのか、掲示板に投稿して頂きたいとリクエストしておきます。皆、興味津々でしょう。
私の「よくハズレるアオミ予想」としては、次のようなものかな? と思います。
(彼女の日頃の言動などを材料に推測しています)
金賢姫さん、あなたの無明こそが今回の大罪を引き起こしたことを 私は観ることができます。それは、「実在する」という観念に囚われた結果なのです。ですから、世間を空と見ることです、認識は無常なのです、虚妄な法に囚われるから苦悩が起きるんです、虚妄な法という馬をあなたは忘れているんです。あなた自身が虚妄な法なのです、五蘊は空性なのです、さあ、どうです? 認識も空性、「あなたの苦悩も空性だ」とわかって来ましたか?・・
・・・・・・・・・
所詮、三文喜劇、三文推測に過ぎないと非難されそうですが、それなら、ご本人ならどう述べるのか、具体的に投稿していただければ・・・と思います。
どのような説法になるのか、興味津々です。
ただ、おそらく、結論を述べるならば、石飛女史の浅墓な仏教理解では、115名の殺害の罪の重みに苦しむ金賢姫の心に 希望の光をあげることは「できない」と思います。
きっと、石飛女史の話を聞いたのち、金賢姫は「私にとって、石飛女史の話は無益であるばかり、有害だ、更に苦悩が深くなってしまった・・・」と、苦痛を倍加させて金賢姫は帰ることなるのではないでしょうか。

しかし、彼女は、その後、結婚・男児出産して、人生を「再構築」することに成功しました。
彼女は、どんなロジックによって、「救われた」のでしょうか? 
彼女が、罪の大きさにうちひしがれていたときに、駆け込んだ場所は、イエズス・キリストの大慈悲でした。そして、そこに希望を見いだし、悔い改め、人生の再出発を誓ったのです。
キリスト教には、「その力」が実際にあるのです。
(無論、真の仏法にもその力はありますが、「石飛仏法」に、その力は無い、という指摘です。)

「悔い改めなさい。天の王国は近づいた。」

石飛女史に申し上げます。
もしも、もしも、ヴェーダンタ密教の「虚空梵我」が真実だったら、どうなると思いますか?
あくまでも仮定で良いから、脳内で、シュミレーションして下さい。
龍樹の「馬に乗りながら、馬のことを忘れている」という指摘の真義が、
「不生不滅の虚空梵我という馬」に乗りながら、それをすっかり忘れて、転倒無視している、という意味だったら、どうなりますか?
それは、もう、大変なことになるのです。

それは、「忘恩の罪」という大罪に該当することになるからです。
あなたは、その大罪を犯していることになってしまうのです。虚空梵我という馬を無視して、「そんなのいない」としながら、馬に乗っているので、生きた馬にトゲ付きの靴で、毎日、毎日、馬の横腹を蹴り付けているのと同じような行為になるのです。
ひどいことです。アヒンサーの教えの根源は、ここにある、とさえいえます。馬にトゲ付きの靴で横腹を毎日蹴り付ける「ヒンサー」、これが、他のヒンサーを連鎖的に生み出す根源ともいえます。

忘恩の罪という大罪を一方で犯していながら、同時に他方で、「高い瞑想」をしようとして、それがうまく行くと思いますか?
断言しますが、「それは不可能」です。
「真理の門」は、閉じられてしまうからです。

「忘馬の罪、忘恩の罪」は、ヴェーダンタ密教の立場からすれば、決定的です。
ヴェーダンタ密教の見地からすれば、o学者が堕落的な阿闍梨であることが明白なのは、それゆえなのです。
ザポ氏も同様なのです。そして、石飛女史も同様なのです。
ゆえに、「忘馬の罪、忘恩の罪」を犯している「タマス気質の一味」ということで、ドロンジョ一味、という評価になってしまうのです。

「バガヴァッド・ギータ」は、お読みのことと思います。
タマス気質の5大特徴
http://www.hannya.net/singa22.htm#tamas5
タマス気質の人間の12の特徴
http://www.hannya.net/singa22.htm#tamas12

「無神論」については、タマス気質の特徴に入っていませんが、タマス気質に配当して良い特徴です。
10) 迷妄・錯覚・暗愚の黒雲に覆われて、非法を正法と思い込み、且つ、万事を逆様に転倒視 する、真理とは違背倒錯した陋劣な知恵(劣智)の働き(が前面に出る)。(18章32節)
これに、無神論も入ります。

ラジャスにおいては、こう述べられています。
10) 正法と非法、為すべきことと為すべからざることを、間違って解する一知半解の知恵の働き(が前面に出る)。(18章31節)

・・・・・・・・・・

以上、
もしも、「虚空梵我」が真の実在であった場合、ヴェーダンタ密教の見地からすると、石飛女史の立場は、本当に「マズイ」ものであることがわかったと思います。

但し、あくまでも、
「無神論が正解で真実であり、ブッダこそは、その真実を言い当てた覚者」だと、お思いになられるのでしたから、それはそれで、もう、どうしようもありません。

ケース分けしてみましょう。
■無神論が真実の場合には、
有神論者の思い込みは、勘違いです。しかし、縄を蛇だと思ってキャーキャーこわがっている女子高生のような「他愛ない認識の間違い」に過ぎませんから、米国をブラジルと思い違いしたとて、大罪にはなりません。だから、この場合、転倒した有神論者においては、さほどの罪は「それ自体としては無い」ことになります。そこから、非道徳的な行為が流出したときにのみ、罪がカウントされます。
■有神論が真実の場合には、
無神論者の「神はいない」という思い込みは、「忘馬の罪、忘恩の罪」となります。世俗の普通生活を送るのには、さして問題はありませんが、「宗教的な修行の道」ということで言えば、その転倒は、致命的な大罪に該当するので、この大罪を犯しながら、同時に高い瞑想をしようとする、というのは、「タマスの人以外は考えないような愚行」ということになります。

以上、まとめましょう。
ヴェーダンタ密教においては、「虚空梵我」の実在を「そんなの無い」と非実在視することが、「転倒」の真義になります。
また、「虚空梵我」が創り出すマーヤー(虚妄の法)は「末」に過ぎないのに、マーヤーを「主にして本」だと思う「本末転倒の勘違い」が、ここでの「転倒」ということになります。このように、ヴェーダンタ密教では、「転倒」には、浅深の2義があります。

一方、石飛仏法においては、「虚妄な法」を実在視することだけが、転倒の真義、ということになります。
ゆえに、浅深2義があることはなく、薄っぺらな「転倒」の意味があるのみです。
ゆえに、この立場では、「真の悔い改め、真の回心」という概念は、存在できません。

なんという、薄っぺらな仏法でしょうか?

これが、真の仏法? それとも、石飛女史が浅薄に一知半解しただけの「おままごと仏法」なのか?
ヤフーから来た人々は、石飛仏法は「おままごと仏法」に該当する、と主張している人が多いですね。

石飛女史が「おままごとなんかじゃないやい」と主張したいのであれば、
私が出した事例、「金賢姫が助けを求めに来たとき」石飛仏法ならば、どう解決を付けるのか、それを提示して、その見事さによって、ロム諸氏を感心感動させて頂ければ良いのではないか、と思います。

果たして、「おままごと」と言われる「そのロジック」によって、それが可能なのか?

私は、「無理」である方に、300万ベリーです。

以上、「転倒」という意味の把握における思考のバグを指摘しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

後半に続く。




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般若心経「空」の本質論

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キリスト教思想要綱

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実践/祈りと行為のバランス論

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ユダヤ教思想要綱

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その他の論

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