本文へスキップ

レヘム総研は哲学と思想を人生の糧とするための総合サイトです。

電話でのお問い合わせは03-1234-0000

メールでのお問い合わせはこちら

梵我瞑想法十地次第徹底解説シリーズ

第4章「無枠の梵」乗 vs「小我枠」乗New!

無料0,000円[税込]


第四章 「無枠の梵」乗 vs 「小我枠」乗
   〜〜大乗と小乗の差異を明晰に知る〜〜


(真−4−1)
 ブッダの死後、仏教は、混迷を極めて行くことになります。出家修行者は、ある意味、ニヒリスティックに、世俗生活を厭離しているわけですから、インド社会がどうであっても無頓着・無関心です。関心があるのは、阿羅漢になって悟りを開く、ということだけ。
そういう態度が、庶民からすると、実に、「自利、自利、自利のために生きる出家僧侶」というイメージに映ることは、否めなかったでしょう。
このような利己的僧侶たちにおいては、教義としても、部派乱立を引き起し、その中では、最大派閥となった「説一切有部」にあっては、なんと、「五位七十五法」に「自性を認める」見解を標榜するようになってしまっていました。
そして、このときの「自性」とは、「それ自体固有の本質」というような意味で使われていました。


(現代でも、テーラワーダでは、「自性」とは、「それ自体固有の本質」というように解釈されたいるようです。また、石飛道子女史がその著作の中、たとえば、「ブッダと龍樹の論理学」の中で、自性をこの意味で使用している有り様は、悪い意味で、驚かされます。無論、その否定形としての「無自性」を説いているわけですが、元の形である「自性」の解釈を間違えていては、「無自性」の意味や範囲も間違えてしまいます。)

ですから、「五位七十五法」論によると、「怒り」には、怒り固有の性質がある・・・「嫉妬」には嫉妬固有の性質がある・・・というように、心のものを、「実体的に」解釈していましたし、世界観としても、「無為法」において、涅槃も実体だし、涅槃以外の現象するものたちの基礎エリアとしての「空間的な場」も実体だとしていました。

「五位七十五法」ウィキ解説


簡単な「五位七十五法」の概要は次の通りです。

<有為転変する有為法として>
●「色法」、11を数え上げます。
眼・耳・鼻・舌・身・・・(感覚器官)
色・声・香・味・触・無表色・・・(感覚対象)

●「心王」
心の作用には、能動的主体部分と、受動的感性部分がありますが、その能動的部分を指しています。唯識では、意識させる自己意識、と位置づけます。
ヴェーダンタ密教においては、自州は、梵我そのものです。

●「心所有法」とは、心王の作用の結果として心に現象するうもので、46を数えます。
遍大地法(どんな意識の時でも通底するもの)
………受・想・思・触・欲・慧・念・作意・勝解・三摩地。
大善地法(心が善なる働きをするときにあるもの)
……心・勤・捨・慚・愧・無貪・無瞋・不害・軽安・不放逸。
大煩悩地法(煩悩心のときに通底するもの)
…無明・放逸・懈怠・不信・棔沈・掉挙。
小煩悩地法(通底する大煩悩心から生起する更に具体化した付随的な煩悩)
…忿・覆・樫・嫉・悩・害・恨・諂・誑・僑。
不定地法(善にも悪にもなりうる心の作用)
……悪作・睡眠・尋・伺・貪・瞋・慢・疑。

●「心不相応行法」
モノでも、心でもないもの。14を数えます。
…… 得・非得・同文・無想果・無想定・滅尽定・命根・生・住・異・滅・ 名身・句身・文身。

●「無為法」は、3つを数えます。
@択滅無為、A非択滅無為、B虚空無為
そして、「択滅無為」こそが、「涅槃」を意味します。
つまり、自分の選択行為によって煩悩を滅することができることで、到ることができる無為という意味。
Aは、自分の選択ではない原因で消滅して無為に到るもの。
Bは、現象が有為転変する「エリア」としての虚空の意味。
現代なら「トポス(場)」とでも言えるでしょうか。

更に、もう少し詳しい解説
http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/59183855.html

・・・・・・・・・・・・
以上が、五位七十五法の概要ですが、
大局的に見渡すならば、次のように言えます。
すなわち、ブッダのときには、一番大事な「涅槃」は、実体的な「自性あり」のものとして語られていた、と推論できるでしょう。最初の出発点から、弟子たちが歪んだ解釈をしてコケていたとは考えにくいからです。しかし、ブッダの死後には、「涅槃実在」の考えが拡大波及して、五蘊が認識する「五位七十五法」にまで実体的な「自性あり」という論にエスカレートして行ってしまったのです。
このような姿は、真の仏教から大きくかけ離れた「落ちぶれ果てた姿」と言えるでしょう。

こうした「看過できない逸脱」が起きて、神がテコ入れして、修正運動が起きたと言えるでしょう。
こうして、大乗仏教運動が起こり、般若経典群が空を説き、龍樹が空を説きます。
そうして、説一切有部による「五位七十五法」に自性を認める見解は「一掃」されるに到ります。(僅かに、上座部仏教系統が残るのみとなります。)

「五位七十五法に自性あり」という実在的極端論は、排除されました。
しかし、その引き戻し論理の影響力が強かったことと、無明なる者が誤解をしたことによって、今度は、龍樹の死後、逆側の極端へと振り子のオモリを振ることになります。
無明なる者たちによって、「空性」解釈はエスカレートされて誤解されるに到り、
今度は、「涅槃も空性・無自性」という縁起論が日本などで優勢になる事態になってしまったのです。
こうして、世界的にも、「ブッディズムは無神論」という形が定着しました。
こうした事態も、振り子で言えば、前回とは逆サイドに振れた「看過できない逸脱」と言えます。確かに、逸脱がひどくなり過ぎました。


そこで、神は、私を使って「本物の縁起の法」たる「ブッダ論理」の秘密を公開することを意志されました。
そして、それが発表され、虚空梵我は無自性ではない、涅槃も無自性ではない、と確定しました。

そして、ここに初めて、大乗八宗の祖とも言われる「龍樹」が本当に言いたかった「中」の真理が、誤謬のない形、明確な形で、顕現したのです。
つまり、「本当の縁起の法」の出現により、「本当の意味での大乗の空」が顕現したことにより、「本当の意味での大乗」の道が、ここに明らかになったのです。


(真−4−2)
では、それは、どのような道でしょうか?
それは、「大乗の空」としての「虚空梵我」を信仰して行く道です。
そして、「虚空梵我」は、「<純虚数>梵我」と称した方が実質に近いものです。
整数の1、2、3・・・・と数えられない「虚数領域の存在」です。


旧来のブッディズム擁護者の中には、
「<一つの>真理」と述べたならば、仏教の「不一」はない」と、得意気に反論する人がいたものです。
確かに、「アドヴァイタ哲学」では、「不二一元」という名称に「一」が入っているので、
旧来のブッディズム論者は、「一元論者め」と、嘲笑の対象にしたのです。
しかし、サンスクリット語の「ア(非)・ドヴァイタ(二元)」は、「不二」の意味「だけ」ですから、「一」 とは言っていません。
ただ、ヴェーダンタ密教では、「One Life」「Oneness」という用法は普通ですから、方便として「1つの真理」というように「整数の1」として、真理をカウントする方法を用いる、とはいえます。
但し、それは「あくまで方便として」です。

ヴェーダンタ密教では、「不生不滅の虚空梵我」とは、
「虚無にして総て」であられる存在であり、「虚無にして総て」という「不生不滅の無相の梵我」だからです。
「虚無虚空にしてすべて一切」ということは、「整数の1」ではない、ということです。
つまり、「不一」ということです。
このことを 比喩として叙述するなら、「梵我とは<純虚数>のようなもの」です。
iの2乗= −1  つまり i^2= −1  となり、
「−1×−1=1」  となります。
このように、「純虚数」は、「実数・整数」を生み出すことができる、 とも言えます。
但し、i^2 とか、 i×i×i×i・・・という「iの個数」は、整数とはカウントしない取り決めにします。虚数が整数個ある、というのは、矛盾だからです。

この比喩の場合、
「純虚数」部分は、虚空梵我の中でも、「涅槃」に比喩されます。
「実数・整数」部分は、「輪廻」に比喩されます。

また、「純虚数的な梵我」が実在なので、虚実が反転していることに注目して下さい。
「虚数」とは、「イマジネール・ナンバー」と称されます。
実数でないから、イマジネーションの世界の数という意味ですね。
ところが、「純虚数的な梵我」こそが、実在なのです。
この見地を主軸に据えるとき、整数・実数的な「有為転変している輪廻世界」は、逆に、虚仮と観ることになります。

但し、「単なる純粋な虚仮」であると、旧来のブッディズム論者の多くは解釈して観ていたわけですが、そうではありません。

「本物の縁起の法」が示すように、「有為転変の輪廻世界は、純粋な虚仮」でありながら、同時に、「純虚数的な梵我」のハタラキでもあるのです。すなわち、
iの2乗= −1   i^2= −1   「−1×−1=1」  ですから、

「有為転変している輪廻世界」は「虚仮であって、虚仮でない」のです。

ゆえに、これを「中」と呼びます。

「純虚数的な虚空梵我」は、「限定枠」たる「セクト」を持ちません。
つまり、「ゼロセクト」であり、「無枠」であり、「無相」であり、「無枠無相の純虚数的な虚空」です。
そして、「有為転変する現象世界」を「中」と観ます。
ここに、ヴェーダンタ密教の奥義があります。


「純虚数的な虚空梵我」を信仰する「ゼロセクトの道」は、「最高度に偉大な道」という意味で「大道」だと言えます。
また、「すべてを包摂する」という意味においても、「大道」です。
しかし、「大道」であっても、決して「広い道」ではありません。
「有為転変する現象世界」を「中」と観る信仰の道は、微妙・絶妙なバランスの上に成立する、体操の平均台演技のような「細い道」を行く高度なものです。
 この「奥の細道」を「聖なる中道」と称します。(詳細は「真−7−1」以下) 

「聖なる中道」は、無形にして無限定な「バランスの道」です。
そして、無形のバランスたるゼロセクトの大道は、限定的な「特定宗教」の「セクト的な枠組」を悉(ことごと)く乗り越え超脱して行く、「無為の炎」が燃え盛る道です。
 たとえどんなに優れた宗教が有ったとしても、それが「限定的なもの」であるならば、その狭い枠に収まり切ることを良しとしない、つまり、「どのようなドグマにも汚染されない」という「志」崇高な道なのです。
なぜなら、ゴールである梵智である般若智は、人智ではないからです。
人智を滅却したところには、「自分の意見」がありません。ただ純粋に、梵智があるのみです。
そして、自分の意見を持たないというのは、どんなドグマにも染まらないということです。
唯一、染まるのは、梵智によってのみです。
それが、「無相無枠の虚空梵我」を信仰する「ゼロセクトの道」です。

大乗仏教の「大」には、本来「偉大・絶大・無限定・無限大」の意味が有りましたが、これを受容する僧侶の器(うつわ)が小さかったため、「偉大・絶大・無限定・無限大」の意味を理解することができず、結局「優れた」という程度の意味に堕落してしまいました。
それ故、大乗仏教も特定宗教の一つに堕してしまい、今日に至っているわけです。
その意味では、「無相無枠の虚空梵我」を信仰する「ゼロセクトの大道」こそが、真の大乗の道なのです。


(真−4−3)
 それでは、いつの時代にも「最も先鋭的」だと言える「真の無枠大乗の道」について、順序立てて、説き明かして行きましょう。

真の無枠大乗の道は、「小我枠の肥大化」を嫌うものです。
「無枠の虚数梵我」を目指すのが大乗の道です。ここに、利他と慈悲慈愛の道、そして影響力行使をして他者の神殿を清め、他者の心田を耕す道があります。
一方、「小我枠の増大強化」という、大乗とは逆方向を行くのが、小乗の道です。ここに、自利とエゴイズムによる無関心とこの世からの背走・遁走・隠遁行動の道があります。

「無枠の虚数梵我」を目指すとき、「小さい衣服」「小さい乗物」「限定的安住性」を良しとせず、常に「上へ上へ」という前進して行く燃える向上心が立ち現れます。
 無枠大乗のスロ−ガンは−−−<日々の脱皮なき処に成長なし>−−−です。
 できるだけ多く、蛇の如く、脱皮して、狭くなった「表皮」を脱ぎ捨てて行くことを願う道です。
成長し続ける蛇ないし龍であれ。そして、天高く、更に高く昇り行く昇竜たれ。
 −−−こうした志ある道が、ゼロセクトの無枠大乗の大道なのです。
 

(真−4−4)
 川下で、人の排出した汚水や糞尿を飲んで暮らすことは、健康を害することに繋がります。過去の仏典は、多くが、捏造・加増されているので、純粋ではありません。
 ゆえに、川上へ、川上へ、と川上りして行くことが大切です。そうして、前人未到の岩清水にまで到達して、その聖気、その甘露を味わうならば、自然に喜びが溢れるでしょう。

 今の自分、今持っている偏見、今受け入れている思想を、更に乗り越えて行こう、という気魄と気概。
 実(まこと)に、ゼロセクトの無枠大乗の道は「日々の段階的自己超越の道」なのです。不断の挑戦の道です。不断の向上と進化の道です。つまり、次々と自分の狭い殻を打ち破って行く道なのです。
 今日も明日も、毎日毎日、「希望と信仰の祈りと努力」で、自己超越に挑んで行く道でなのです。
 

(真−4−5)
 ゼロセクトの無枠大乗の道は、絶え間無き自己改善の道であり、それを通しての社会改善の道でもあります。
 ゼロセクトの無枠大乗の道は、「勝手な思い込み」の信仰とは全く無縁の道であり、寧ろ、自分勝手な思い込みを否定し、偏見や誤解を自己検証して、謙虚にそれを捨てて行く叡智の道です。
 畢竟(ひっきょう)、ゼロセクトの無枠大乗の道は「無所得」の道〔※註1〕です。
人智を滅却して、梵智に到ることを目指すので、「私はこれこれを得た」という観念から、段階的に脱却して行く道です。
 実(まこと)に、ゼロセクトの無枠大乗の道は、「祈りの力」で「祈りの力」で正しい「祈りの力の炎」で「我欲と所有観念」を制御して、やがて滅却して行く道なのです。
 

(真−4−6)
〔※註1−−−単に「無所得」という言葉だけだと、悪魔がこれを悪用してしまいます。よって、誤解の無いように補足すると、ここで言う「無所得」は「般若心経で言われる無所得」即ち「(物理学の)質量不変の法則」と近似した「空」の「無所得」です。(空−七−百七十九)
 「無所得」概念を悪魔(サタン)が悪用した世界最大のケ−スは、共産主義による私有財産否定です。共産主義は、国家が国民の私有財産を強制的に「没収」する思想です。財産を没収された国民は、自由を奪われ、結局、国の奴隷となるしかありません。これを喜ぶのはサディストとマゾヒストだけでしょう。
 <共産主義の悪魔性>はここにあります。
 共産主義は国民主権ではありません。サタン的な特権者による国家主権、或いは、悪魔的指導者層による特権階級主権です。共産主義では、「国家」こそが国民の王であり、国民は「国家の指導者層(共産党幹部)」の意向に従うしか他に道はありません。
 反抗すれば、国家転覆を企てる大悪人となり、共産主義の敵となり、非国民として拉致・監禁・残虐な拷問、そして身の破滅である非業の死が待つのみです。


(真−4−7)
 つまり、共産主義とは、国民に強制的に「国家と共産思想という偶像」を礼拝させる思想うなのです。
まことに−−−<共産主義とは、偶像礼拝の一態様>−−−です。
 従って、共産主義者は「羊の皮を被った狼」です。それも、自分が狼だとの自覚無き狼たちの群れです。中には、自分を天使か大御神だと思っている狼もいるでしょう。
 共産主義は、表向き、「資本家の搾取から個人を解放する」という「錦の御旗」を掲げています。しかし、その実、個人の財産と自由を没収し、人々を反抗不能にした上で「国家を礼拝」させ、個人の尊厳を踏み躪(にじ)り、国民を国家に隷従させる思想です。
 つまり、「搾取からの解放」をスロ−ガンにしながら、その実「搾取の極み」の思想、それが共産主義なのです。
 一方、宗教の「無所得」概念は、こうした「偶像礼拝思想」とは全く次元の異なるものです。(「偶像礼拝」については「星−15−33」、「星−16−3」以下)
 ローマカトリック教会も認めてその教義にしているように、飽く迄も、何処までも、「国民の私有財産」は神聖なものとして保障されねばなりません。その時初めて、「財産を布施する自由」が発生するわけです。もしも、国家が私有財産を全部没収するならば、国民の「布施する自由」も没収されてしまうことになります。//〕〕〕


(真−4−8)
 ゼロセクトの無枠大乗の道は、得ようとするよりも、捨てようとする道です。
その捨てるべきものとは、物質やお金ではなく、老荘的な「有為」です。
 ゼロセクトの無枠大乗の道は、「有為」を減少させ、「無為」を増大させる道です。
 ゼロセクトの無枠大乗の道は、心の中の「有為の曇り」を払拭して行く道です。
 ゼロセクトの無枠大乗の道は、心の鏡の歪みを矯正して真っ直ぐ平面にし、付着した汚れを(毎日毎日汚れる暇も与えないほど小まめに)洗浄して行く道です。

 
(真−4−9)
 さて、ゼロセクトの無枠大乗の道の一番の要諦は、次の点です。即ち−−−
<文字による「教義」や、教義による「儀式の所作」に囚われず、それらを超越して行くこと>−−−です。これは、蝶々のように空を舞う態度です。
一方、これができない場合は、「特定の教義」に縛られ、「特定の儀式所作」に縛られ、結局、「特定宗教の枠組み」の中に留まるしかないでしょう。
これは、経典の文字という樹木や枝々にしがみつきながら、葉っぱの栄養を取って行く「芋虫型」と言えます。

 「これこれの儀式を行わなければ救われない」−−−こうした教義を信じる人は、特定宗教の道を行くしかありません。
 「その儀式を行わなくても救われる道は有る」−−−このように大胆不敵に見切るのが、ゼロセクトの無枠大乗の道を行く人です。
「有為」を捨てるのに、儀式も文字も必須ではない、と知るからこそ、そうできるのです。
そして、「山頂に行く登山道については、限定しない」−−−これが無枠大乗の道です。
(これ即ち「絶対的なこれだけが絶対という道はないと知る」ことです。詳細は「真−6−1」以下)

 
(真−4−10)
 特定の霊性修行の技法に拘泥しないこと。これが無枠大乗の道です。
 けれども、(前章で取り上げた)<「隻手の音声=大静謐音」瞑想法>は、無枠大乗の手法の白眉だと言えます。
何故なら、この手法は万人が、どこでも直ぐ直ちに、に実践できるものだからです。
 「大静謐音瞑想法」は、誰でも、いつでも、何処ででも、即座に実践できる道です。
 −−−如何なる宗教(宗派)の人でも、如何なる社会的地位や肩書を持つ人でも、如何なる職業に従事する人でも、誰であれ、思い立った瞬間に、即座にこの根源の「大静謐音」に耳を傾けることができます。
 朝でも、昼でも、夕方でも、夜でも、夜中でも、明け方でも、いつでも、この根源の「大静謐音」に耳を傾けることができます。
 また、教会でも、神社でも、寺社仏閣でも、会社でも、工場でも、公園でも、牢獄でも、地下鉄でも、夜の遊興場でも、球場でも、音楽会場でも、大会議場でも、国会でも、波止場でも、山頂でも、洞窟でも、何処ででも、この根源の「大静謐音」に耳を傾けることができます。
 こうして、真剣に根源の「大静謐音」に耳を傾けるように努め、それを続けるならば、「静謐の波動」が精神に流入して行き、静謐なる精神が、必ず増大して行くことでしょう。
そして、徐々に霊的な耳が開かれ、霊的な眼と心が開かれ、「大静謐音」の属性と同じように、如何なる限定をも超越する「度量と器」を持つようになり、壮大無比なる霊的ヴィジョンを会得するに到るのです。

 
(真−4−11)
 「隻手の音声=大静謐音」瞑想法には、次の三つの利点が有ります。
 第一に、この手法は、(異常な邪教を除いて)如何なる特定の宗教(宗派)の修行法とも相反することがなく、その妨げとならない。よって、キリスト教徒であれ、仏教徒であれ、ヒンドゥー教徒であれ、イスラム教徒であれ、自分の信じる教えの修行と“両立”させて、この道を実践することができます。
 第二に、この手法を実践すると、「大静謐音」の波動が修行者に流れ込むようになるので、雑念が雲散霧消して行き、それに伴って、修行者が所属する特定の宗教(宗派)の修行も、大いに捗(はかど)るようになります。
 第三に、この手法の実践には、如何なる文字も言葉も儀式も必要としないこと。故に、この瞑想法は「霊性修行の根本手法」の一つと言え、各宗教に通じる「普遍的手法」と言え、同時に、全宗教を超越する「無枠大乗の手法」と言えるのです。
よって、この手法を熱心に実践し続ける人は、必ず、特定の宗教(宗派)の枠組みを超越する地点まで到達するわけです。

 
(真−4−12)
 これで分かる通り、「向上の道」は無数に有り得ます。宗教の登山道は無数に有ります。
 何故なら、特定の宗教(宗派)を信じる「限定的な狭いヴィジョン」から、徐々に徐々に霊的視野が広がって行くプロセスそのものが「向上の道」だからです。
「向上の道」とは、徳性向上の道のことです。
「徳性の向上」すなわち「高い倫理的行動基準の習得の階梯」としては、「型から無形へ」という階梯があります。
カンフー映画のスターだったブルース・リーは、実際にも相当に強い武道家でした。彼の創始した拳法は、ジークンドー(截拳道)と呼ばれ、相手の拳などの攻撃を途中で防御して「截断する」と同時に、それが攻撃にもなっている、という「交叉法」という高度な技法が使われています。
そして、ブルース・リーの拳法は、「無形だ」と言われます。
相手にあわせて変幻自在であること。これが実戦では重要だからです。
ゆえに、決まった型を持たないのです。
(実は、宮本武蔵の剣術も同様であることは、「五輪の書」に書かれています。)
すなわち、「無形」こそが「理想形」であるわけです。

ところが、実際には、空手でもカンフーでも、最初は、「決まった型」の練習から入るものですね。「決まった型」を朝から晩まで練習して、「その型の心髄」を学んで行く。
なかには、それで終わってしまう人もいます。応用が利かないまま、型でおわりです。
しかし、中には、「型の心髄」を会得して、そこから「守・破・離」の精神で、自由自在の境地にまで進む人もいます。

このように、「身体性分野の芸事」は、会得する階段が、ある程度、決まっています。
第一段階は、「型」を学ぶ。
第二段階は、「型」の意味内容を理解する。
第三段階は、「型」を破る。
第四段階は、「型から離れて、無形の自由自在」になる。

宗教においても、観念や理論ではなく、実際の行動へと流出する「身体性と行動性」こそが重要なので、「武道の習得階梯」に相似することになります。

そこで、小乗と言われるものは、「型」を示した教えを意味することになります。
「型を習得する」のは、「得る、得る、得る」という「小我枠の知識の増大」という方向性を持っているからです。
「型」は、「限定」を意味するので、無枠大乗に比較して、「小乗」だと言えます。
「名色、規則・規律、型、しきたり・・・」つまり、表に表(現)すことができる「型」です。
つまり、「型から入る」ということで、「外的なアプローチ」と言えます。
宗教においては、「型から入る」「外的なアプローチの教え」を「顕教」と言います。

「外的アプローチ」は、「外からの力」によって「内なるものを形作ろう」とするものです。
武力や腕力や権威で 他者を言いなりにするのも、外的アプローチの一つです。
法律というのは、国家が人民を統制するためのもので、「外的に秩序」を明示して、それに従わせるものです。罰則を伴うものもありますし、単なる指導基準を示すだけのガイドラインの役割のものもあります。

ユダヤ教の「モーセの十戒」も同様の視点で解析することができます。
十戒は、外的アプローチとして与えられました。(いわば、国家公法的位置づけも含む)
ゆえに、多くのユダヤ人は、「外的・表面的にそれを守り行なう」という形で、教えを遵守しようと皆が努力しました。そして、今現在、現代のユダヤ人もそうしています。
しかし、「型を習得しよう、型を守ろう」とする方向性は、小我枠の知識や自負心をも強化する方向性を孕んでいます。ゆえに、「小乗の肥溜め」に落ちて腐臭を除去できません。
「自力作善の毒」が濃度を増してしまうのです。


正しい人、ヨブにおいても、そうでした。(ユダヤ教聖書 ヨブ記)
誰からも正しく戒律を守る人として有名であったヨブですが、自力作善の自負心を滅却することはできていなかったので、心の中で、「自分は誰よりも正しい」とする驕慢心が強化されてしまったのです。
ゆえに、悪魔サタンの軍団がそれを見逃さず、神に訴えをします。「自分を正しいと主張しているので、本当に正しいか、我等にテストさせて下さい」と。
神様にしてみると、悪魔のこの申し出にも一理あります。ゆえに、テストの試練を与えることを条件付きで許可します。条件付きとは、「命まで取るな」と。
そうして、傍から観ると、かわいそうなほど、ヨブは苦しむことになります。
ヨブに艱難辛苦が到来します。神の防御(加護のプロテクション)が部分限定で、取り去られてしまったのです。


その艱難を通して、ヨブは悟ります。何を?
自分は、「小乗の信仰、小我枠の信仰に陥っていたのだ」と気付くのです。
そして、自力によって十戒を守ることを誇る「自力作善の慢心」という「小我枠」を打破した信仰に到ります。
すなわち、無条件に「南無アッバの祈り」を捧げる境地へとステップアップしたのです。
(アッバとは、イエズス・キリストが赤ちゃん言葉で神に祈った言葉。パパという意味。)
そうして、神の防御であるご加護は「万全」なものに復活し、以降は、幸福に暮らしましたとさ、めでたし、めでたし、という物語、これが「ヨブ記」であり、それが我々に教え示している教訓です。


このときのヨブは、十戒を捨てたのではありません。
型は保持されていますが、それを超える行動ができるようになったのです。
まさに、正しい形で「守破離」が実現して、「正しい無形」に到達したのです。
ゼロセクトたる無枠大乗の信仰の理想形は、「この無形」にあります。
これが「上級段階でのゼロセクトたる無枠大乗の境地」です。〔※註2〕

 
(真−4−13)
〔※註2−−−無枠大乗のヴィジョンは「無形」なので、本来、体系化できません。聖者は、無数の対機説法をしますが、それらを体系的に叙述することはありません。ヴェーダンタ密教においても、「梵我一如」と言われるだけで、その密教体系が体系的に語られることは、人類史上、今に到るまで一度もないわけです。
この人類史上最高度に困難な難問に挑戦したのが、本書です。
従来は、多くの信徒が、自分の出会った特定の宗教(宗派)を少し学んだだけで一生を終えてしまうだけでした。これでは到底「宗教の真髄」に迫ることはできません。ましてや全宗教を鳥瞰・俯瞰することなど不可能です。
しかし、情報化社会で世界は狭くなり、宗教情報も自由に入手可能な時代になりました。神の化身としての聖者も複数登場して、人類の意識をリフトアップしようとしています。ゆえに、本書「梵我瞑想法十地次第」を熟読玩味して、「無枠大乗の思想」を学ぶならば、自ずと地上の全宗教の精髄(エッセンス)を学び取ることになり、そうして速やかに、全宗教を個別的に深く理解できるようになります。
 その上、このプロセスで宗教を学んだ人々は、偉大なヴィジョンに触れているので、無知蒙昧なる「宗教同士のドグマティックな争い」に参加しない見識を持つ人に自然になって行きます。〕

 
(真−4−14)
 特定の宗教(宗派)の手法は、一つの登山道を決めて、それを登って行く手法です。
 しかし、無枠大乗の道は、一貫して、どの宗教(宗派)にも染まり切ることが無いスタンスで進んで行きます。
 このため、無枠大乗の道を志す人には、次の−−−<二つの心配>−−−が出て来ることになります。

【第一の心配】
 どの宗教にも入り切らず、どれも信じ切らない態度を維持するならば、それは結局、確固とした信仰を持たないことに通じ、延(ひ)いては不動のスタンスの欠如となり、堅固な足場を持てないまま、結局、混乱・動揺・不安・疑念に苛まれ、堅実・確実に前進することができなくなってしまうのではないか。

 
(真−4−15)
 この心配は、ある程度、的を得たものとも言えます。信仰の道を行くには、仲間が必要です。コークスの火が小さくとも、沢山のコークスが集まれば、コークス全体がしっかりと燃焼して消えません。それと同様に、志を同じくする同胞と交わるのは、大切なことです。そういう意味では、なるべく偏見や洗脳の少ない教団に所属するのも、大切なことと言えます。できれば、真の聖者と言われる人が残した集団に属すると良いでしょう。

 
(真−4−16)
【第二の心配】
 無枠大乗の道を歩む人が、他の特定宗教(宗派)の人々とトラブル無しに交流することは可能か否か。可能ならば、どのようなスタンスを取れば良いか。
 この点については、次の事をしっかり押さえて置くことが肝要です。即ち−−−
<我の強い信仰者や業の深い信仰者には、無枠大乗の道は、殆ど語るべきではない。彼らに語り過ぎると、彼らは向き直って襲って来る>−−−と。
だから、あくまでも、よく人を見て、対応を変化させなければなりません。
 
(真−4−17)
 無枠大乗の道は、地上の総ての人々を歓迎するべく、その両手を大きく広げているものです。しかしだからといって、総ての人々がこの「偉大な招待」を喜んで受け入れるというわけではありません。
 最初から無形に到るのは、むずかしいので、様々な「小型」が与えられます。
しかし、その「小型」を絶対的なものとして信奉してしまう「未熟」が生じるのです。
無枠大乗の大道は、無形なので、非常に高度で精妙な教えです。
 高度であるが故に、誰でも直ぐに理解できるというものではないので、向学心に燃える人や、自己改善の意欲と自己超越の闘志に燃える人だけが、無形の道に尻込みすることなく、積極的にこれに取り組んで、その実践に励み、それによって大きな祝福を得て、著しい自己変容を成し遂げ、広大な霊的ヴィジョンを会得することができるのです。
 それ故、こうした気概の有る人は、霊的な視野が広がることで、狂信的で非常識な言動から離れ、一切の邪教に嵌まり込む危険から離脱します。
しかし、真理をさほど愛さない者は、特定の宗教(宗派)を超越することを恐れます。
 無形の中道たる無枠大乗の道に果敢に足を踏み入れる気概の無い人は、無限大乗の広大で自在過ぎる教えによって、「既存のドグマを信じる思い込み」が破壊されることを極度に嫌うので、耳を塞ぎ、目を塞いで、自分の信じる道を自分なりの方法で猪突猛進することだけを望むものです。

 
(真−4−18)
 凶暴な野良犬は、人間を見て、身の危険を感じると、すぐにその人間に襲いかかり、噛みついて来ます。野良犬がこうした行動を取る裏には、人間に対する強い不信感と恐怖心があります。
 一方、人間に愛されて育った飼い犬は、人間に対して一定の愛情と信頼感を抱いており、人間との間に一定の交流ル−ルを持っているので、闇雲に人に噛みついたりしません。
 理屈はこれと同じです。
 無枠大乗の道に対して、深い検討もせず「これは危険」と即断し、「誤解と偏見」を抱く短絡的で性急な人、また、「我の強い、そして業の深い信仰者」は、無枠大乗思想に対して強い不信感と猜疑心を向けて来るものです。
 彼らに対して、不用意に無枠大乗の話をすると、彼らは自分たちの信仰がそれによって攻撃され、危害を加えられ、破壊されてしまうのではないかと勝手に気を回して、勝手に恐怖し、勝手に突如激昂し、保身のために必死の形相で攻撃を仕掛けて来ることでしょう。
まさしく「彼らに語り過ぎると、彼らは向き直って襲って来る」のです。
だからこそ、「無枠大乗の道は、我の強い信仰者や業の深い信仰者には、殆ど語るべきではない」とアドバイスされるのです。
無枠大乗の道を志す人は、この道理を能々(よくよく)弁えて置くことが肝要です。      
 
(真−4−19)
 無枠大乗の道は、特定の宗教(宗派)の道を破壊・纖滅(せんめつ)するものではありません。寧ろ、反対に、無枠大乗思想が特定の宗教(宗派)の道と融合すると、その特定の宗教(宗派)の道は以前よりも洗練され、深化したものとなります。
 何故か。
 無枠大乗の高台から全宇宙・全宗教を鳥瞰すると、特定の宗教(宗派)の道は、飽く迄も山頂に登る無数の登山コ−スの「一つに過ぎない」と見えるからです。
確かに、一つに過ぎないのだが、<他には無い「長所と特徴」を持った1コ−ス>に見えるのです。
 つまり、無枠大乗思想は、特定宗教(宗派)の道を、否定したり破壊・纖滅(せんめつ)したりすることなく、「一つの貴重な方便(便法)」として、心の底からそれを認め、尊重することもできるのです。
 こうして、特定宗教(宗派)の「独自性」が他と比較され、長所・短所・諸機能が客観的に正しく把握されるようになると、その特定宗教(宗派)は、以前よりも一層洗練され、一層純化され、一層強力になって、以前より遙に美しく輝くようになるのです。

 
(真−4−20)
 無枠大乗思想のこうした包括的で精妙で根源的な「無為の働き」について、一定の「理解と信頼」を置くことの無い「短絡的で性急なる人」「我が強く業の深い人」は、無枠大乗思想を外敵と見做し、理性を失った野良犬のように凶暴な悪魔と化して攻撃して来ます。
 一方、宗教の「道」を一つの方便(便法)に過ぎないと位置付けることができる「(或る程度、自我意識が成熟している)自我観念が希薄で業の浅い人間」や「自己改善と自己超越の意欲に燃える闘志有る人間」は、無枠大乗の道を喜んで受け入れるでしょう。

 
(真−4−21)
以上をまとめます。

一、ゼロセクトの無枠大乗を喜んで受け入れる人は幸いです。その人は大きな祝福を得て、著しい自己変容をなし遂げ、広大な霊的ヴィジョンを会得するに至るからです。
二、自己の偏見を発見するに「敏」であり、果敢にそれを捨てて行く気概の有る人は幸いです。そうした態度を貫徹して行くなら、ゼロセクト無枠大乗の偉大な中道を、力強く安全に歩んで行くことができるからです。
 
こうして、かつて、部派仏教にかわって、大乗仏教運動が勃興して隆盛したように、今の時代は、ゼロセクトの無枠大乗すなわち「梵乗仏教」運動が勃興して、隆盛になることでしょう。そして、それは、世界的な仏教革命となり、全世界的な「宗教的アウフヘーベン」(止揚) へと発展して行くのです。


;;kk

;;

梵我瞑想法十地次第 目次に戻るNew!

0,000円[税込]

シンプルで使いやすいと大人気!今、注目のアイテムです。
ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。

予備

ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。


予備

ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。


予備枠

ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。


予備枠

ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。

解説

ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに

紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。

その他の論

ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。ここに紹介文が入ります。


この商品について

サイズ ここに説明が入ります。ここに説明が入ります。
材質 ここに説明が入ります。ここに説明が入ります。
重量 ここに説明が入ります。ここに説明が入ります。
備考 ここに説明が入ります。ここに説明が入ります。ここに説明が入ります。ここに説明が入ります。
ここに説明が入ります。ここに説明が入ります。ここに説明が入ります。ここに説明が入ります。
ブランド ここに説明が入ります。ここに説明が入ります。

サイト情報

レヘム総研

〒163-0000
東京都○○区○○○1-2-3
TEL.03-1234-0000
FAX.03-1234-0001
info@builder**.jp
→ショップ案内