宗教真理アカデミー

メールマガジン005号(2005/5/3配信)

人類の始祖はアダムとエバ(イブ)なのか?
マリアの処女懐胎話の真偽と共に考える


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■人類の始祖はアダムとエバ(イブ)なのか?
       −−−マリアの処女懐胎説の真偽と共に考える−−−

皆様、こんにちは。

去る2004年12月6日のことですが、次のようなニュースがヤフー・ニュースで配信され、日本の各種のブログでも、「アメリカ国民の8割がマリアの処女懐胎を信じてる!」とまさにビックリマークで受け止められました。
 
記事タイトル−<<8割が「処女懐胎本当」 米国民の信仰浮き彫り >>−−

【ニューヨーク2004年12月5日共同】新約聖書のキリスト降誕の話で聖母マリアの処女懐胎を信じている人は、米国民の79%、キリスト教徒では87%に上ることが米誌ニューズウィーク(電子版)が5日報じた調査で分かった。
 反対に「信じていない」と答えたのは米国民のわずか15%で、クリスマスを目前にした季節的な調査ながらも、米国民の「信仰の深さ」があらためて浮き彫りになった。
 同誌によると、キリスト生誕を祝福するため「東方の3博士」が訪れた話など、新約聖書の話を歴史的に正しいとみている人は米国民の67%(キリスト教徒では75%)に上り、「キリスト教信仰を肯定するためにつくられた神話」との見方は24%にすぎなかった。
(共同通信) - 12月6日9時11分更新

http://astro.air-nifty.com/blog/2004/12/post_5.html
http://kisosuu.cocolog-nifty.com/zakki/cat2453580/
 
上記の「大学への基礎数学−雑記帳」ブログでは、「調査は18歳以上の成人1009人への電話調査で行われました。」と記事の補足がみられます。
また、「(ダーウィンの)進化論に加え、(旧約聖書の天地)創造論を公教育で教えることに賛成する人が62%、反対は26%」
「(ダーウィンの)進化論にかえて、(旧約聖書の天地)創造論を教えることに賛成する人が43%、反対する人が40%」 というNEWSWEEKで出ていた意見が挙げられています。

このように、アングロサクソン系プロテスタント・カルチャーの国、アメリカでは、ダーウィンの進化論を教えることに反対する州まであるということで、それだけ「旧約聖書の権威」が高い様子を伺うことができます。(ユダヤ・パワー恐るべし)
旧約聖書はユダヤ教の聖典ですし、イスラム教も旧約聖書を基礎にしているので、世界四大宗教のうち、実に3つまでが、「旧約聖書の権威」によって基本教義が基礎づけられています。
 
しかし、日本人は(古い・新しい)神道イストであれ、儒教信徒であれ、仏教信徒であれ、旧約聖書のアダムとエバの話は、「単なる神話に過ぎない」と受け取ることに、全く違和感はないでしょう。つまり、日本人は「旧約聖書の権威」の外から、真実を見つめることができる立場にいます。
 
さきほど、米国などのユダヤ教徒・キリスト教徒・イスラム教徒のあいだでは「旧約聖書の権威は高い」と言いましたが、「その権威を絶対的と受け止めるか、単に尊重する程度の意味に受け止めるか」では、大いに違ってきます。
 
「書かれた物の権威を<絶対的>と受け止める人は、すぐに文字に縛られてしまうる人で、権威に弱く、自分独自の思索力も主体性も乏しい、顕教的レベルの人と言えます。そして、こういう人は、権威の力におもねて、ついつい自分にウソをついてしまう人とも言えます。というのも、「真実かどうか本当は分からないと知っているのに、いたずらに背伸びして、これこれを信じる・信じる・・・と思い込む「自己洗脳作業」を自分でしてしまうからです。
一方、「書かれた物の権威を<相対的>と受け止め、書かれた内容一つ一つを自分の思考と体験に照らして確認しながら徐々に順々に受け入れて行く人は、徒に文字に縛られない、密教的レベルの人と言えます。このような人は、自分独自の思索力も主体性もある程度成熟した力強さを備えているので、ヨーロッパ中世キリスト教の暗黒時代を打ち破ってルネッサンス時代が始まったように、神霊に基づく理智の光に照らされ、ルネッサンス的な明るく清新な空気の中で自由に自身の才能を開花させ、才能を充分に活かして行くことができる人だと言えます。
 
この両者の差異は、「神の息吹が如実に息づいているか否か」の差だと言えましょう。
暗黒的停滞(タマス)か、はたまた、まばゆいばかりの「大日」的活躍か、
それは、神の息吹をどう捉えるか、というスタンスの相違でもあります。
 
一般の学者には、霊能力者のような「透視能力」はありません。しかし、学者は自己の理性を武器にして、「理論の整合性・説得性・論理一貫性」を透視能力の代わりにして、興味深い諸事を探究して、そこに隠された真実を明らかに洞察・認識・認知しようとします。
 
旧約聖書には、「夢は神さまからのメッセージ」という内容の一節がありますが、流浪のユダヤ人、ジグムント・フロイトは、この一節に猛反発したのだろうと私は見るのです。そうして、彼は、「夢の発生には科学的・生理的・精神的な原因があるのだ」ということを研究して理論化し、精神分析学を打ち建てました。この理論の応用により、一部の精神疾患などの治療には有効であることから、その科学的真実性がある程度、認知されています。(彼をユダヤ系オーストリア人というべきか、オーストリア出身のユダヤ人と言うべきか・・どちらでも良いですか?)
フロイトが旧約聖書の神信仰に反発して精神分析学を打ち建てたとするならば、ユングが集団無意識などというオカルト的なものを主張し始めれば、激怒して破門するという流れも自然に理解できると思います。
 
(余談ですが、「大道芸をする数学者」として今や有名なピーター・フランクルをご存じでしょうか。彼は12カ国語を話せると言います。漢字も大好きで、難しい漢字も書けます。彼は、ハンガリー出身のユダヤ人で、若い頃にフランスに亡命し、各国を渡り歩いたということで、12カ国語とは、ハンガリー語、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フランス語、ロシア語、スペイン語、ポーランド語、日本語、ハングル、中国語、さらにインドネシア語だということです。そして、勿論、数学に関しては若くして数学オリッピックに出るなど、世界レベルということですね。全く、ユダヤ人というのは、どうしてこうも、桁外れの頭脳の持ち主が多いのでしょうか。ジグムント・フロイトも、語学に優れ、ラテン語、ギリシャ語、英語、フランス語、後にスペイン語、イタリア語を習得した後、医学の道に進んだということです。)
 
というわけで、精神分析学は確かに素晴らしい威力を持っていますが、さりとて、「夢は神からのメッセージ」という聖書の教えも、ケース・バイ・ケースですが、時には真実であることは、ここに強調しておきます。(・・・)
こう考えると、神からのメッセージに興味のある人は、自分の見る「夢」にも興味が湧き、夢分析をするようになったりします。それは悪いことではありません。但し、科学的手法一辺倒では真実は捉えられません。神のメッセージの場合、「霊的象徴言語」として語られますから、その真意を霊的に解読する必要があります。
 
話が徐々に横道にそれているような感じですので、元に戻りましょう。
創世記のアダムとエバの話も、禁断のリンゴの果実の話も、霊的象徴物語として、解読しようという試みは、古来から、ラビたちによって、あらゆる角度から試みられています。
しかし、どうしても、色々な矛盾が解釈上出てきてしまうため、結局は、美しい見事な解釈というのはこれまで成されなかったわけです。
それゆえ、こうした寓話は、「何らかの一部の真理を表現したかったのだろう」、程度に理解しておくのが宜しいようです。
「狂信的聖書信仰者」(特にプロテスタント系キリスト者に多い。ペンテコステ派とか・・福音派とか・・)の中には、「神は全能であるから地球の自転を瞬間的に止めることだってできるし、一瞬のうちに地球人全員を火星に移住(テレポート)させることもできるし、アダムとエバを人類の始祖として創造することもできるし、イエズス・キリストが再臨する時には、孫悟空のキントン雲のような雲に乗って全世界の人々が彼を見るように、地球中を飛び回るのは間違いない 等々」 と真顔で主張する人がいるので、ビックリしてしまいます。
 
この手の人々を、私は「顕教的トンデモ夢想者」 と捉えつつ、「サンタクロースさんは煙突からプレゼントを持ってきてくれる」と純真に信じている可愛い幼児たちと同様に扱います。つまり、この種の夢想は、「未熟な理性」の産物であるけれども、「理性が成熟して行く過程」では必要不可欠の中途ステップである、という意味で、「可愛い」と肯定的に尊重すべき面があるのです。
 
キリスト誕生の場合も、マリアの処女懐胎説については、諸聖者を認める一元論・そして般若宗からは、イエズスだけ、処女懐胎であらねばならない必要性は微塵もありません。
ということは、処女懐胎を否定しても、イエズスを大聖者と認定することは可能だということになります。
釈尊仏陀にしても、シュリ・チンモイにしても、シュリ・サティア・サイババにしても、ラマナ・マハリシにしても、シュリ・ラーマクリシュナにして、両親の性行為の結果として妊娠・出産の経過をたどって、聖者としてこの世に生まれて来ています。
一元大曼陀羅観からすれば、イエズスだけを特別視して、「処女懐胎ゆえに唯一特別に聖なる人」、という解釈は、いかにも、とってつけた「権威づけのための神話捏造」であり、それも「性を不浄」と解釈する二流の人物たちによってでっちあげられた思想の産物である、と鑑定することになります。
 
ただ、「捏造だ」と断じると、サンタクロースを信じる幼児の夢を台無しにしてしまうのと同様、彼ら信徒の「トンデモ夢想」を台無しにしてしまうわけですから、「言わぬが花」という面もあるため、この種の話題は、あくまでも「人を見て」語るようにしています。
 
さて、人類の始祖は旧約聖書が語るような「アダムとエバ」でないとしたならば、一体、どういうことになるのでしょうか。
一つのヒントは、般若宗推奨図書に指定している『ベールの彼方の生活』(全五巻)(オーウェン著 潮文社刊行)にあります。ここには、「創造の天使たち」と呼ばれる「神の巨大な創造力」の一部を賦与された高級霊者たちが登場します。彼らの創造力は完全ではありません。彼らの能力も熟練によって完成へと近づいて行きます。地球上の諸生物もまた、彼らの創造力行使の習作であったとも言えます。
このように、ダーウィン的な進化論(つまり宇宙線などによる遺伝子の奇形的変化と自然淘汰説)すらも真に受けず、「宇宙線による遺伝子奇形」で説明する代わりに、霊界からの段階的な「創造力の行使」が継続的に続いていると捉える見方を 正当だと考えます。
たとえば、キリンを例にとると、ダーウィン的進化論では、たまたま偶然に、高いところの果実・食物を取ることができるように(宇宙線などの影響で遺伝子が傷つき)多くの色々な奇形的に変化して生まれた動物がいるなかで、特にたまたま、「首の長いもの」だけが、飢えることなく存続して交配して増えて行き、長い年月の自然淘汰の中で、キリンという首の長い動物になった、という説明になるでしょう。
しかし、「創造の高級霊者」関与説では、予め、首の長いキリンという動物を作ろうという霊界での青写真と意志があり、首の短い動物を元にして、「首の部分」を成長させてキリンにしよう、というステップが決められ、そうして、変化を加えようとする前の「元となるターゲット動物」の心に、高い樹木の果実を採って食べようという意欲を霊界から送り込み、執拗にそうしたチャレンジをさせ続け、(但し、これだけではそんなに首だけ成長はしないでしょう)、その上で、霊界から成長のための何らかのエネルギー的な「創造の関与」をすることで、結果的に遺伝的に首の部分が発達した種族としてのキリンができあがって行く−−という経過を辿るものと理解します。
この方が、現実の生物の変化に合致した見方でありましょう。
 
この「創造の高級霊者」関与説では、人間が動物(類人猿)から進化したという説を否定する必要は全くありません。むしろ、それは自然な変化だと考えます。
そして、「では、どのようにして、猿から人に進化したのか?」 という疑問には、
般若宗としては、最新の「アクア説」それも、永井氏によって修正された「永井的アクア説」が、かなり真相に近いのではないか、と考えます。
つまり、アフリカの淡水湖畔で、陸棲の猿人というより水棲の猿人から現在の人類へと進化(変化)して行ったのではないか・・・・と。
永井氏も指摘している通り、人間の胸毛の毛流が水を泳ぐ時の水流にピタリ一致することが本当であるならば、そして、確かに、人間の出産行為は、水棲用にできていること、などの点は注目に値する指摘です。
私もテレビで多産の女性が六、七人目の子供を出産するのに、自分一人で自宅でお風呂の湯船に水を張って、その中で一人で出産してしまったのを見て、そのたくましさに驚嘆した覚えがあるのですが、なるほど、人類の祖先が水棲猿人であったならば、こうした現象も納得できる、というものです。
 
キリスト教では、バプテスマのヨハネが、人々を「新生」のために、水に全身を浸し潜らせて、そこから再び起き上がらせるという儀式を行ったのは、この儀式の型が、猿から人類へと「水(棲)を通して」進化して来た事をも象徴しているからかも知れない、と考えるのは、私だけの深読みでしょうか。いいえ、恐らく、「水を通った種族」のみが、知的にも肉体的にも進化して行くというのは、
ある意味、理に適ったことであると思いますし、今後も、この型が繰り返され、何らかの水を通しての「革新」によって、人類は進化して行くのだと思います。
(その意味で、未来は、水の偉大さと重要性再発見の時代となり、かつまた、水素エネルギーの時代になるのではないでしょうか。)
 
以上で今回のメルマガを終わらせて戴きます。

では、皆様の上に、霊的・物的に良き齎(もたら)しがありますように。


碧海龍雨





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